山路きて何やらゆかしすみれ草



山道を登ってきて、ふとすみれ草に心惹かれる。


それを何やら懐かしいと感じる、松尾芭蕉の句ですね。


そのすみれ草について。


僕は群生しているところを思い浮かべたのですが、アイルランドの音楽家エンヤは“一輪の花”と捉える。


この辺は背景に文化の違いみたいなものがあって、面白いなあ、と思います。


英語に「equivocal」という単語があります。


ボーカルに、同じようなという意味を表すequiという接頭語がついてますから、「同じような声の」という意味合いが語源の言葉と思いますが、「あいまいな」とか「はっきりしない」という風に訳されます。


どうも集団を隠れ蓑(みの)に使うことをよしとしない感じがある。


やはり個から物を考えるというところが強いのでしょう。


ところで、おおかたの日本人から見ると、欧米人の旦那さんは奥さんにすごく優しいように見えたりします。


ラブラブのようにも見える。


ただし、あれは小さい頃から「個」として育てられることの反動のような感じもしているのです。


よくあちらの映画やドラマなんかに、ひとり部屋のベッドで寝るシーンが出てきたりするでしょう。


お母さんもしくはお父さんは「おやすみ」と言って部屋の灯りを消して出ていく。


ここで、魂が植物、動物を経験し、人間へとその器を大きくしてきていることを考えます。


そう考えると、いきなり個室を与えられることがちょっと急な感じにも思えるのです。


やはり「人間は特別な存在である」という教育があって、その延長線上にあのひとり部屋のベッドがあるように思えてくる。


もちろん欧米社会と日本社会との経済的な格差の問題はあると思うのですが、川の字で並んで寝て、その中から巣立っていく、という方がやや自然な感じもする。


むろん、いつまでも親元におられても困るわけですが。


話は変わります。


朝日新聞のニューヨーク支局というのは、ニューヨーク・タイムズの本社に間借りしているらしいです。


以前のブログ記事で、両社は社会における立ち位置が似ているのではないかと書いたんですが、最近の朝日新聞の記事によれば、両社は報じる視点がしばしば異なるとありました。


その違いは日米の違いともいうべきもので、ニューヨーク・タイムズの記者は独自の視点から深く掘り下げた記事を編集長に熱心に売り込もうとする。


そういうところから活気が生まれているようでもあります。


ニューヨーク・タイムズの記者には「日本はテレビも新聞もたちまち単色に染まる」と見えているところがあるそうです。


(心をひとつに)


というのは日本社会の得意なところでもあり大事なことだとは思っていますが、多様性の時代においては、安易に流されずに、個として考えれること、やれることはないのか、という反対からの視点で自らのあり方に磨きをかけることも大事だと思わされます。



参考文献∶

2024年4月14日付朝日新聞21面



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