「なんか怪しいな」
仮に、友人が隣でそうつぶやいたとしよう。
その友人が昔、探偵事務所に勤めていたことがあるとしたら、なにやら説得力を持って迫ってくるように聞こえるかもしれない。
人間には系統っぽいものがあるようにも思う。
その友人というのが、鼻の穴が丸くて、なにやら犬っぽい人だとしたら、その説得力はさらに増すかもしれない。
ここで犬を飼ったことのない人のために書くが、犬はけっこうよくわかっていて、怒られそうなときは絶対近寄ってこない。
そういうことは実は植物にもあるのではないかと思っている。
植物たちは根を下ろしているので、そうは見えないのであるが。
ところで街で枝を切られすぎた木を見ると、自分が丸坊主にされたような気になるのは僕だけだろうか。
アンタ既に丸坊主みたいな頭してるじゃないか!
と言われたら「あっ、うっ」としか言えないのであるが。
話は変わる。
初めてサッカーのメッシの動きを見たときは、足にボールがくっついているのかと思った。
相手選手11人全員、ドリブルで抜いていけそうだったからだ。
しかし、よく見ると、相手がいるところでは細かくタッチし、走れるところでは長めに蹴り出したりしている。
必要なところで必要な分を調整できるのだろう。
行けば抜かれるし、距離を取ればシュートを打たれる。
相手としては悩ましいところだろう。
さらにメッシは自分で決めることにこだわっておらず、複数で寄せても、パスを出されてしまう。
ドリブルか?シュートか?パスか?
まったく読めないところが、メッシの強みと言っていいかもしれない。
さて、こんな話を書いたのは、過去に自分が通ってきた道なら読めるのではないかと思うからだ。
自分の肉体は乗り物で、本体は魂だとする。
その魂は植物、動物を経験し、人間へとその器を大きくしてきていると考える。
メッシの動きがまったく読めないのは、技能の高さもさることながら、背景に器の大きさの問題があるのではないかと想像しているわけだ。
反対にメッシは相手の動きを読んで動いているのだろう。
魂の遍歴として魂の成長がどういう段階にきているかは、年齢を超えたもっとスパンの長い話だろう。
段階の進んだ人は自分にしかわからないことで孤独を感じることもあるかもしれない。
しかし、自分が通ってきた道として、誰とでも共通項を見い出せるのが器の大きい人のあり方ではないかと考えたりもする。
以下は、江戸時代の俳人、松尾芭蕉の句だ。
山路きてなにやらゆかしすみれ草
山路とは京都から大津に出る峠道のことらしい。
峠を超えれば琵琶湖が見える。
そういう山道を登ってきて、すみれ草が生えているのに気づく。
ゆかしというのはなつかしく感じて心惹かれたということだろう。
読んでそのまま、平明な句と言っていいかもしれない。
以下は、アイルランドの歌手エンヤの解釈だ。
「彼は山を歩いていて、美しい景色の中に何の変哲もない一輪の花を見つける。
誰にでもありえる日常の話よね。
それを芭蕉はまるで“特別な瞬間”のように表現する。
それがたまらなく良いと思ったの。」
(WANER MUSIC JAPAN記事より抜粋)
このようにエンヤが芭蕉の俳句にインスパイア(触発)されたことは、「Sumiregusa」という楽曲となって結実する。
エンヤは日本語でこの歌を歌った。
エンヤが芭蕉の句から感じ、表現したかったのは、歌詞にもある通り、“ものの哀(あわ)れ”でなかったか。
“ものの哀れ“は、しみじみとした味わいのことを言っているのだが、心の向きのようなものがあって、それは時代によって左右されない根源的なものへと向けられている。
あこがれと共に。
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