「汝(なんじ)らに戦いをしかけるものがあれば、神のために戦いなさい。


しかし侵してはならない。


神は侵すものを好まれない。」


コーランにある言葉だ。


これがひとつ、聖戦と訳されたりする「ジハード」の根拠になっている言葉だろう。


戦い方がテロっぽくなるのも、ほんの少しだけわかる気がする。


コーランというのは開祖ムハンマドが神様から預かった言葉を集めたものらしい。


神様から言葉を預かる人を預言者というらしいが、イスラム教の解釈では、海を割って進んだモーセも愛を説いたイエスもムハンマドも皆、預言者のようだ。


それでキリスト教徒がイエスを神様扱いしているところがどうも引っかかるらしい。


ムハンマドというのは元々商人であったという。


商いにはきっと、行き渡らせる、というような遠望があるだろう。


その時に大事にしているのは、自分の水平感覚なのではないか。


少し下がったところが新たな市場になるというように、だ。


そして商人は人の心理を理解することに長けている。


そういうところから、イスラム教が単純に「人間は平等」というのを大切にしていることが伺える。


聖地となる前のメッカの人々の多くは、ムハンマドたちのことを嫌がったらしい。

 

既に富豪たちの支配体制があったからだろう。


それと「神は唯一」というのが、祖先伝来の宗教に合わなかったこともあったに違いない。


元々、メッカのカーバ神殿には多神教の像が祀(まつ)られていたらしい。


それをムハンマドたちが打ち壊してしまったのだという。


一神教の神様は見えない存在であるし、神様に似せた像はみな偽物だということだろうか。


「神は唯一」「人間は平等」という考えにも合わない。


日本人の自分からすると、やや極端な平等主義に感じられなくもないが。


そのカーバ神殿に向かって、一日5回の礼拝が繰り返される。


それが、断食の月ラマダーンと並んで、イスラム教徒以外には戒律の厳しい宗教というイメージを与えているだろう。


しかし、唯一神にだけ帰依(頼みとすること)することは、人間が他の人間に隷属することはない、という自由が与えられる意味合いもあるのだという。


卑近な例で申し訳ないが、なにやら厳しい砂漠の部活のようなもので、中にいればそれなりにここちの良い連帯感もあるのではないかと想像したりしている。



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