日ユ同祖論になってしまうが、
 日本語の”ドッコイショ”とかはヘブライ語だと”蝦夷(敵)を打て!”とかになるらしい。
ヨサコイ節の”ヨサコイ”も”蝦夷(敵)を懲らしめよ”ということらしい。これは、蝦夷(北海道)、アイヌ人を敵として対立して戦っていたということになる。

 点線以下に掲載してニュース記事等をだいたいまとめると、個人的意見も入るかもしませんが、
 つまりは、もともと日本列島にいた少数民族だったアイヌ人が、外国からやって来た移民である弥生人(ユダヤ人、国を失った流浪の民であるユダヤ民族、10、12支族?)が日本列島に入って来て、少数だったもともといた縄文人(アイヌ人、アイヌ民族)は北(東北、仙台から上、北海道)と南(沖縄)に追いやられたということになるだろうか。もちろんアイヌ人の中にも移民・渡来人と合流して、仲良くいっしょに暮らしていく人たちもいたみたいだ。

千島列島・クリル諸島の領地の認識はまるで、中東・イスラエル・パレスチナの情勢のようだ。
 尖閣諸島といい、なんかたいへんだな。

>邪馬台はヤ・マ・タ・イで、海が陸を分断する場所
>
四国か九州か北海道しかないな。それとも日本全体のことを言っているのか?

騎馬民族の話もあるが、ちょっとよくわからないので今回は触れないでおこう。

伝説の話になりますが、アイヌの前にもコロポックルという種族が北海道とかに住んでいたらしい。アイヌによって迫害されたとある。

河童もお辞儀と関係があるとは思わなかった。アイヌの神話のカパ・コズという水の精の話からのお辞儀の由来、ちょっとおもしろい。

 余談ですが、聖書ヘブライ語原典に載っているYHWH(テトラグラマトン、4字)で表される神の名は、”ヤーウェ”という呼び方が正しい読み方だ。(真実を告げる書より引用)


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●【真実を告げる書(弥勒菩薩ラエル著)PDF版107~より一部転載】
 地球上で次々と創造された異なる人種の間では、相手を支配したり滅ぼそうとしたりしました。もし人間が創造者たちに対してこういう敵対的な態度を取らず、両親のように敬愛することが確かならば、改良した人類を創造したいという誘惑は大きなものになるでしょう。
 これは可能ですが、実に大きな危険を伴います!それに、創造者たちの中には、地球の人間の方が、彼らの親たちよりもやや優れているのではないかと、危惧する人たちさえいます。「サタン」もその中のひとりで、地球の人間は少し知性がありすぎるために、私たちの惑星にとっては危険であると絶えず考え、今もなおそう考えているのです。
 しかし、私たちの大多数は、あなたがたが私たちを敬愛していることを証明し、私たちを滅ぼそうなどとは決してしないだろうと考えています。私たちがあなたがたを援助しにやって来るまでは、少なくともそのことだけは期待しています。【真実を告げる書(弥勒菩薩ラエル著)PDF版107~より一部転載】

●【真実を告げる書(弥勒菩薩ラエル著)PDF版262~より一部転載】
 人間はすべて、その人種が何であろうと、生まれながらにし権利や権限において、平等でなければなりません。しかし、愚か者に対しては、彼らの皮膚の色がどうであろうと、判別しなければなりません。地球上のすべての民族は、エロヒムによって創造されたものであり、平等に尊敬されなければなりません。【真実を告げる書(弥勒菩薩ラエル著)PDF版262~より一部転載】

●【真実を告げる書(弥勒菩薩ラエル著)PDF版112~より一部転載】
 人道的人類主義
 第二に、あなたがたの世界は利益によって麻痺しています。共産主義も、進歩と努力をしたいという気を起こさせるのに、十分なニンジンを人間に与えることには成功していません。
 あなたがたは平等に生まれついています。これは聖書にも書いてあることです。為政者は、あなたがたが財産の面でほとんど平等に生まれてくるようにしなければなりません。知性もろくにない子供たちが、父親が蓄えた富のおかげで豪華な生活をし、それに引き換え、天才たちが空腹で死にそうになり、食べるためにどんな卑しい仕事でも引き受けざるを得なくなり、人類全体に利益をもたらす発見を可能にするような仕事に就けなくなるというのは、許しがたいことです。
 これを避けるためには、私有の財産制度を廃止する必要があります。しかしだからといって、共産主義を樹立するわけではありません。
 この世界はあなたがたのものではないのです。これも聖書に書いてあります。あなたがたは貸借人にすぎません。ですから、すべての財産は、四十九年間貸借にするようにすべきです。これは、遺産の不平等をなくします。あなたがたの遺産や、あなたがたの子供への遺産は、この世界全体のものなのです。もしもこの世界を住み心地のよいものにするために、あなたがたが結束することができれば、の話ですが。
 この人類に対する政治的方針は、共産主義ではなく、人類の将来に関わるものなので、お望みなら「人道的人類主義」と呼んで差し支えないでしょう。
 一例を挙げてみましょう。・・・・・・
・・・(中略)・・・
・・・・・・この人道的人類主義は、すでに聖書の中に規定されているのです。
 「あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である」(『レビ記』第25章第14~16節)
 「地は永代に売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、または旅人である。(『レビ記』第25章第23節)
 もし天才たちに権力が認められれば、彼らはこの改革の効用を理解することでしょう。
・・・(中略)・・・
※ヨベル=七年に一度の安息の年を七回重ねて、第五十年目に守られた開放の年。この年がくると、すべての奴隷は解放され、売られた土地の権利は元の所有者に返還されなければならなかった(『レビ記』第25章第8・11節参照)。新教出版社『聖書辞典』より。
【真実を告げる書(弥勒菩薩ラエル著)PDF版112~より一部転載】


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http://www.rael.org/

弥勒菩薩ラエルが書いた本は下記URLから無料でダウンロードできます。
日本語版
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(※「真実を告げる書」と「宇宙人からのメッセージ」の内容は同じです。)

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$壱つの塵☆ラエリアン


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■アイヌと琉球は縄文型 日本人の遺伝系統、ゲノム解析で裏付け 2012.11.1
http://sankei.jp.msn.com/science/news/121101/scn12110108070000-n1.htm
(以下、上記HPより一部転載)

 日本人の遺伝的な系統はアイヌ(北海道)と琉球(沖縄県)が縄文人タイプで、本州・四国・九州は縄文人と弥生系渡来人との混血とみられることが、東京大などのゲノム(全遺伝情報)解析で分かった。約100年前に提唱された「アイヌ沖縄同系説」を裏付ける成果で、1日付の日本人類遺伝学会誌電子版に論文が掲載された。

 日本人の成り立ちについてドイツ人医師のベルツは明治44年、身体的特徴の共通性からアイヌと琉球は同系統と指摘。人類学者の埴原(はにはら)氏は平成3年に「二重構造説」を提唱し、本州などでは弥生時代以降に中国や朝鮮半島からの渡来人と先住民の縄文人が混血したが、アイヌや琉球は遠いため混血が少なく、縄文型の系統が残ったとした。

 今回の結果はこれらの仮説を高い精度で裏付けるもので、日本人の起源を探る上で貴重な成果という。仮説はこれまでもミトコンドリアDNAの分析結果などで支持されてきたが、はっきりしていなかった。

 研究チームはアイヌ系36人、琉球系35人のゲノムを解析し、DNAの個人差を示す60万個の一塩基多型(SNP)を調べ、本州・四国・九州の計243人や韓国人などと比較した。その

 結果、アイヌと琉球が遺伝的に最も近縁で、本州などは韓国と琉球の中間と判明。アイヌは個人差が大きく、北海道以北の別の民族との混血が起きたとみられることも分かった。

 研究チームの斎藤成也総合研究大学院大教授(遺伝学)らは縄文人の骨からDNAを採取して解析中で、斎藤教授は「分岐や混血の年代を推定して日本人の変遷を明らかにしたい」と話している。
壱つの塵☆ラエリアン-ゲノム解析による日本人の遺伝系統(概念図)


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■剣なのか、野蛮人なのか
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66568117/
(以下、上記HPより一部転載)

8世紀から15世紀まで、そのような対立は、現在の仙台を境に行われていた。本州北部については、日本人による開発はほとんど進んでいなかった。その土地では戦闘に優れたアイヌ人らが生活していた。

8世紀から15世紀まで、そのような対立は、現在の仙台を境に行われていた。本州北部については、日本人による開発はほとんど進んでいなかった。その土地では戦闘に優れたアイヌ人らが生活していた。アイヌ人の呼称のひとつである「エミシ」という言葉が、「剣」を意味するアイヌ語である「エムス」から来ているというのも偶然ではないだろう。日本人は、「エミシ」と言う言葉を、野蛮人を指す言葉として使った(蝦夷)。日本書紀には、蝦夷、すなわちアイヌ人たちが、平和な日本人たちを脅かす野蛮人として描かれている。またアイヌ人たちとの対立の中で、その戦闘術を受け入れながら、侍階級が形成されていったという説もある。さらに侍階級の家の一つであるアベ氏などは、アイヌの血を引いている。

15世紀中ごろから、日本人のアイヌ人に対する戦いは次第に優勢となって来た。松前氏は当時蝦夷地と呼ばれていた北海道の征服を開始した。侍たちの軍隊が北海道へ侵攻した際、アイヌからの抵抗に遭ったが、アイヌ側にも多くの日本人がいた。つまり、これは文明対野蛮の戦いではなく、蝦夷地に住んでいた人々の、中央政府からの独立闘争だったのである。


■日本は誰のものか?
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66514331/
(以下、上記HPより一部転載)

問題なのは、かなり古い時代から日本にはアイヌ人たちが住んでいたということだ。考古学的発掘によれば、アイヌ人が日本列島に現れたのは紀元前約1万3千年頃だという。

問題なのは、かなり古い時代から日本にはアイヌ人たちが住んでいたということだ。考古学的発掘によれば、アイヌ人が日本列島に現れたのは紀元前約1万3千年頃だという。そのアイヌ人たちが縄文文化を創り出した。彼らは琉球から北海道にわたる日本列島だけではなく、サハリンの南半分、クリル諸島、カムチャッカの南3分の1にも居住していた。その証拠は日本の地名にも残っている。対馬はツイマで、遠い、という意味。富士はフツィで、おばあさん、の意。筑波はツ・ク・パで、2つの出っ張りをもった頭、つまり2つの頂上をもった山、という意味。邪馬台はヤ・マ・タ・イで、海が陸を分断する場所、という意味となる。

アイヌ人たちがどこから日本列島にやって来たのかは今に至るまではっきりとしていない。インド・ヨーロッパ系やセム系、オーストロネシア系などとする説があるが、どれも完全な正当性が確認されているわけではない。ただ一つ確実に言えることは、人類学的な観点から見て、アイヌ人は、日本人、朝鮮人、ニブフ人、イテリメン人、ポリネシア人、インドネシア人、オーストラリアのアボリジニなど、極東や太平洋の諸民族とは大きく違っているということだ。まさにそれゆえに、17世紀、日本を訪れたヨーロッパ人たちが最初にアイヌ人に遭遇した時の驚きがあった。つまり、モンゴロイドが居住している地域に突如として、長い髪の毛、豊富なひげを蓄えた、完全にヨーロッパ的外見を持った人々が現れたからだ。

現在日本においてアイヌ人の数は約3万人となっている。サハリンや他のクリル諸島を含むロシア領には数百人。彼らに何が起こったのだろうか。


■祖国を覚えていないアイヌ人たち
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66563313/
(以下、上記HPより一部転載)

アイヌ人の同化政策は継続された。2008年、日本の国会はアイヌ民族を自立した少数民族として認定したものの、アイヌ人たちの自意識の向上にはつながらなかった。現在、アイヌ人たちは日本人とほとんど変わらない。もちろん日本人に似ることはなにも悪いことではない。問題なのは、現在日本に三万人いるアイヌ人のなかで、およそ200人しか世界のどの国の言葉とも似ていない独自のアイヌ語の知識を持っていないということだ。彼らは自らの文化を覚えておらず、残っているものは外国人観光客の見世物に給されている。

しかしすべてが失われたわけではない。現在ロシアには数百人のアイヌ人が発見された。彼らはどこにも移住したわけではないが、いままで長い間、他の民族籍として住民登録していたのだ。彼らは言葉も文化も維持している。


■「真の人々」
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66569893/
(以下、上記HPより一部転載)
「真の人々」、それは「アイヌ」という言葉が持つ意味だ。それは別に自らを誇示するような言葉ではなく、単にアイヌ語の一つの言葉に過ぎないものだろう。しかし、アイヌ人の行動には尊敬に値するような、何か「真のもの」があった。


「真の人々」、それは「アイヌ」という言葉が持つ意味だ。それは別に自らを誇示するような言葉ではなく、単にアイヌ語の一つの言葉に過ぎないものだろう。しかし、アイヌ人の行動には尊敬に値するような、何か「真のもの」があった。彼らは自然と調和しながら生きることが出来た。彼らは採集や漁業、狩猟などを行い、農業には一切関わらなかった。そのような理由から、自らの人口と地域の可能性とのバランスを維持しない限り、生活していくことはできなかったと言える。よって、広い土地に分散しながら少人数で生活していくことを余儀なくされたのである。

そのような時代は長く続いた。というのも、日本列島においてアイヌ人たちは比較的少数だったからだ。しかし紀元前第三千紀ごろから、日本列島には東南アジアや南中国、そしてさらには中央アジアやアルタイからの移民がやってくるようになる。彼らは狩猟だけでなく、農業や牧畜にたずさわり、より多くの人々を養っていける能力を持っていた。その結果、日本列島における移民の数は増加し、それが日本民族を形成したのである。

日本列島における民族大移動の第一段階において、移民たちとアイヌ人らの関係がどのようなものであったのかは、はっきりとしていない。ある説によれば、一部のアイヌ人たちはサハリンやアムール川下流地域、沿海州やクリル諸島に押し出された、という説明もある。そしてヤマト国家が出来てからは、アイヌ人たちは本州の北部へと押しこまれていった。

他の説によれば、ヤマト国家は邪馬台国、つまりアイヌ人国家の後継者なのだとする説明もある。そうなれば、ヤマト国家とアイヌ人との対立は、日本人とアイヌ人との戦いではなく、国家に移民を吸収していった「文明化された」アイヌ人たちと、伝統的な生活を守ろうとした「野蛮な」アイヌ人たちとの戦い、ということになる。


■日本人が、アイヌの剣も、お辞儀も、腹切りも自分の文化にした
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66561992/
(以下、上記HPより一部転載)
-1945年以降、すべてのアイヌ人が日本にわたったと長い間考えられていましたが、そうではないのですか?

-私たちアイヌ人、もしくはカムチャダリ・クリル人といえばいいでしょうか、私たちはどこへも消えたことはありません。単に、長い間認められてこなかっただけなのです。しかし17世紀にはすでに、スチェパン・ペトローヴィッチ・クラシェニンニコフが私たちのことを、カムチャダリ・クリル人として記録に残しています。「アイヌ」という自称は、アイヌ語で「男性」もしくは「立派な男性」という意味で、それは軍事的な役割からきています。我々は650年間も日本人と戦ってきたのです。私たちは、日本人という侵略者に抵抗してきた世界で唯一の民族です。私の考えでは、日本人は我々の文化を真似しているだけだと思います。

-興味深いですね、どのような点ですか?

-私たちの文化を取り込んだのです。その例はたくさんあります。日本のサムライの剣は「カタナ」と呼ばれていますが、それはアイヌ語では「入植地」や「村」、「氏族」などの意味です。刀は父から息子、息子から孫へと受け継がれるため、このように呼ばれていたのです。腹切りもアイヌ人によって考えられたものなのです!私たちの信仰によれば、魂はお腹のなかに住んでいると考えられています。そしてそれは細い糸によって結び付けられています。死んで魂を解放するためには、腹を開いて、その糸を切る必要があります。そうしないと人間は生まれ変わることができません。

それに、日本式のお辞儀がどこから生まれたものか知っていますか?私たちの神話には、カパ・コズという水の精がいます。その精は人間の姿をして、誰かを水に引き込もうとして陸に現れます。頭の上にはくぼみがあり、そこにある水がこぼれてしまうと、精は死んでしまいます。カパ・コズの問題は、とても性格がよいということです。ですから森で人に出会ったときに、私がお辞儀をすれば、向こうもお辞儀をします。お辞儀は深ければ深いほど、礼儀正しいものになります。そして頭の上の水もたくさんこぼれてしまいます。ですから、深いお辞儀というのは実は、相手がカパ・コズではないかどうかを調べるためのものなのです。

-あなたの苗字は日本風ですが、あまり日本人に似ていませんね。

-私たちはアジア人であったことはありません。私たちは島の民族で、学者たちは今に至るまで、ひげのないアジア人のなかに、ひげを生やした民族がいるのかどうか、解明できていません。私の先祖は南クリルのシコタン島、アイヌ語でヤシコタン島の出身です。1725年のアイヌ反乱の時、日本軍に追われて家族と共に小船でカムチャッカにやってきました。ロシアのクリル湖の近くに定住しました。アイヌ人は半遊牧的な生活を送っていました。冬は暖かいクリル湖の近くで過ごし、夏になればオホーツク海に出て、海獣などの漁業にたずさわりました。ところで、クリルという名称が、煙を出している温泉や火山の様子(注:ロシア語で「クリーチ:タバコを吸う」)からきているわけではないことを指摘しておきます。これはアイヌ語で「民族、人々」をさす「クル」という言葉から、私たちクリル人が住んでいるからです。

-しかしもしもクリル諸島という名前がアイヌ人によるものだとすれば、日本が主張しているような、ただでさえ証拠が薄い議論が覆されますね!

-その通りです。私はマトゥア島への探検隊に参加しました。そこにはアイヌの入り江があります。第12回探検隊の時に、アイヌ人たちの古代の居住後がありました。発掘品によれば、それがアイヌであったことは確かです。食器の破片や毒矢のためのやじり、そのほかアイヌ人に特徴的な生活用品が発見されました。ですから、日本人たちが主張しているように、クリル諸島やサハリン、カムチャッカなどにアイヌ人がいなかったという議論はおかしいのです。日本人たちはアイヌ人は日本の北海道だけに住んでいて、クリル諸島も返還しろ、というのです。それは嘘です。ロシアにもアイヌはいて、クリル諸島に権利をもっています。ロシア外務省が、クリル諸島が日本のアイヌ人だけのものではないことを主張しないのはとても変です。それはすべてのアイヌ人のものなのです。

-カムチャッカには何人ぐらいのアイヌ人がいるとお考えですか?

-私たちの共同体には205人が住んでいます。もしかするとそのうちの何人かは完全なアイヌ人ではなく、単にそう思っている人かもしれません。しかしそれは憲法に矛盾するものではありません。

-私の知るところでは、アイヌ人はいわいるアイヌのパスポートと呼ばれる身体的特徴がありますね。それで決めればどうですか?(ナカムラさんは笑いながら、シャツの袖をまくりあげて、自分の「アイヌのパスポート」を見せてくれた。)

-私たちは、毛に覆われたクリル人、と呼ばれています。しかし人類学的な特徴のほかに、一部保存されている言葉があります。クラシェニンニコフの「カムチャッカ地誌」にはクリル語の辞書もあります。

北海道には「ウタリ」という組合があり、日本全国に55の支部があります。これは文化教育センターです。私たちは「ウタリ」を通じて、他のアイヌ人たちと文化関係を築こうとしました。しかし、組合は政治にしか興味がなく、特に反露的な性格が強いです。私は指導者の一人に、どうしてそうなのか、と聞いてみました。彼は正直に答えてくれました。「私たちも生活していかなくてはなりません。政治家は自分の利益になるものに資金を提供します。」と。ですから現在、「ウタリ」とはほとんど連絡をとっていません。カムチャダリ・クリル人、アイヌ人の文化を自らの力で復活させていこうと思っています。

日本のサムライの剣は「カタナ」と呼ばれていますが、それはアイヌ語では「入植地」や「村」、「氏族」などの意味です。刀は父から息子、息子から孫へと受け継がれるため、このように呼ばれていたのです。腹切りもアイヌ人によって考えられたものなのです!


■アイヌ人はどのように奴隷となったのか
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66566176/
(以下、上記HPより一部転載)
侍たちの軍隊は、アイヌ人たちと比べて組織力と規律性で勝っており、最終的に、アイヌ人たちは敗北した。その後、アイヌ人らは事実上、奴隷の位置に置かれた。松前氏は沿岸の土地を獲得した。侍たちは自身で漁業や狩猟にたずさわることはなく、土地を徴税請負人に貸し出し、請負人は通訳や監督人を雇い入れた。その多くは、老人や子供に厳しく扱ったうえに、アイヌ人女性たちを強姦した。アイヌ人のすべての生活は縛られていた。侮蔑と強制は、アイヌ人たちの抵抗の気持ちをくじくために行われていた。アイヌ人の若者たちは、北海道の中心部からクナシル島やイトゥルプ島の漁業にまで駆り出された。事実上、そのような政策はアイヌ人に対する民族浄化とも言えるものだった。

このような状況は頻繁に反乱を引き起こした。最大の反乱の一つは1789年、クナシル島で起こったものだった。最初アイヌ人たちは簡単に勝利をおさめたものの、北海道からやってきた松前の援軍によって鎮圧されてしまった。


■さようなら、熊祭り!
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66565901/
(以下、上記HPより一部転載)
クナシル島での反乱が鎮圧された後、幕府による提言に従って、政策が変更され、同化政策が始まった。厳しい措置は廃止され、地域には医者が派遣された上で、アイヌ人に対する日本語教育が始まった。また農業教育が開始され、段階的に日本の習慣が教え込まれた。しかもアイヌ文化の各種祭りが禁止され、特にアイヌ人らが尊敬の印として熊をいけにえにささげる行事である熊祭りも禁止された。

同化政策は1868年の明治維新以来、北海道の本格的な植民地化が始まってからさらに促進された。アイヌの男性はひげを剃ることを強制されたほか、女性は口に刺青をすることを禁じられ、伝統的な服も着用できなくなった。

クリル諸島に住むアイヌ人の状況はそのなかでも一番ましなものだった。ロシアの植民地政策は、徴税人による職権乱用やコサック兵の乱暴などが時たま武力衝突を引き起こすことはあっても、より緩やかなものだった。アイヌ人の伝統は守られ、奴隷にまで落とされることはなかった。アイヌ人らはロシア人がやってくる以前に住んでいた土地に住み続け、それまでの営みを継続していた。クリルに住む多くのアイヌ人は、ロシア語を話し、正教を信仰していた。

しかし1875年、ペテルブルグ条約に従ってサハリン全体がロシア領となった代わりに、クリル諸島が日本に引き渡された際、アイヌ人らは自らの土地を離れるのを好まず、それは結果的に悪いこととなった。彼らはシコタン島に移され、漁業道具および船をすべて奪われた上で、許可なく海に出ることを禁止された。アイヌ人たちは様々な労働に使役され、その報酬は米や野菜、酒で支払われた。魚の配給は限られていたが、それは北クリルのアイヌ人たちの伝統にはまったくそぐわない食事だった。彼らは主に、魚を主食としていたからだ。そのような生活の変化と行き過ぎた人口密度は、北クリルから連れてこられたアイヌ人たちの死亡率を高めることとなり、1941年までにはクナシル島のほぼすべてのアイヌ人が全滅した。このような悲劇が日本国内および海外の世論に暴露された時、先住民専用居住地は廃止され、病気と貧困に落ちぶれ生き残った約20名のアイヌ人は、北海道へと移送された。


■漁業の特徴
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66564021/

■クリル諸島はアイヌの土地か?
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66513571/


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■「千島」概念の変遷
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/MAP_Kyoukasho/REKISHI_MAP/index.htm
(以下、上記HPより一部転載)

・江戸時代以前の日本の認識
 日本の北方は「蝦夷」であり、蝦夷にはたくさんの島があるという意味で、「千島」「蝦夷ヶ千島」と呼んでいた。
 「蝦夷」とは、華夷思想に基づく異民族の呼称。

・18世紀前半のヨーロッパの認識
マトマエ島(北海道)を含めて、「クリル」と呼んでいた。

・19世紀、始め頃
 カムチャツカから北海道の間にある島々をヨーロッパでは「クリル」と呼んでいた。
 日本では、「クリル」と「千島」は同じものとしていた。
 ハボマイ、シコタンが千島に入るか否かは定かでない。そのような厳密な呼び名ではなかった。

 江戸時代、北海道は「和人地」「蝦夷地」に分けられていた。最初、和人地は松前城下周辺の狭い地域だったが、徐々に範囲を拡大し、1800年代になると、西海岸は「熊石」以南、東海岸は「野田追」以南と、渡島半島全域にまで拡大した。
 和人地は、松前藩の完全支配下にあったが、蝦夷地は松前藩の充分な支配下にあったわけではなく、独自にロシアとの交易を行っていた地域もある。


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■「我は在りて有る者」(ヘブライ語と古代日本)
http://yojiseki.exblog.jp/9371913
(以下、上記HPより一部転載)
・よさこい節
ヨサコイ (よさこい) ISR・khWI  懲らしめよ・蝦夷(カイ)(エブス:エルサレムの先住民)を

・東北民謡ナギャドヤラ
ドッコイセー (どっこいせー)DKA・khWI・SWR 粉砕せよ・蝦夷(カイ)(エブス)・敵を


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■日ユ同祖論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96
(以下、上記HPより一部転載)
日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)は、日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)は共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説。

主に、日本人とユダヤ人によって提唱されている。

日ユ同祖論は、主に三つの立場がある。
1.古代イスラエルの「失われた10支族」は、日本に渡来したという説。
2.古代イスラエルの「失われた10支族」のみならず、12支族が、日本に来たという説。
3.古代日本人は、ユダヤ人の先祖であるという説。


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■アイヌと蝦夷(エミシ)
http://blogs.yahoo.co.jp/leg1723/57730350.html
(以下、上記HPより一部転載)
‘鉄’と言うのは、「蝦夷族が鉄生産の優れた技術を持っていた」と言う事から来ています。この意味の詳細は追って説明します。‘俘囚’と言う意味ですが‘俘’一字では「捕虜、生け捕る、戦利品」などになります。‘囚’は「捕らえる、罪人を捕らえて牢に入れる、囚人」と言う意味であり、これを繋げると「罪人として捕らえられた捕虜・戦利品」と言う意味になります。
広辞苑には「俘囚・・朝廷の支配下に入り、一般農民に同化した蝦夷。同化の程度が浅い者を‘夷俘’と呼んで区別。」とあります。
つまりこの本は「朝廷に捕らえられた蝦夷が、その鉄の生産技術を持って朝廷に仕えた」と言う話を、色々な資料や遺跡、聞き取りにより、この仮説を証明しようと試みた一部始終が書かれているのです。

この本に巻かれた帯の記述が解りやすいのでそのまま紹介しましょう。
「蝦夷”征伐”の謎を解く!別所ーー全国に遺る500の地名(別所の事)を調査と資料で解明し、古代王権に破れ、歴史に埋もれた産鉄民の姿を現代に蘇らせる」
征伐に””が着いています。著者はこの言葉にこだわりを持って著書を勧めていきます。詳しくは次回にしたいと思います。

皆さんの住んでいる近くに「別所」と言う地名はありませんか?そこは昔大和朝廷に捉えられた蝦夷の民が纏められて暮らしていた場所だと言うことです。全国に500余が残っていると書かれています。


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■「ダラシない」のダラシと「シマリがない」のシマリの語源
http://blog.livedoor.jp/gqsmj852/tag/%E8%9D%A6%E5%A4%B7
(以下、上記HPより一部転載)
・大陸から日本に大挙して渡ってきたハタ氏一族の家系らしいのだ。
日本人から異民族と特別視された蝦夷が東北地方に偏在しているのは、農耕型社会と関係があるのだろう。
灌漑技術が未発達で温暖でなければならなかったため、稲作は奈良(大和)周辺が発祥の地となる。
後から来日したハタ氏一族は農耕に適さない東北地方に追いやられたのではと考えられる。
しかし、金を産出したり、珍しい海産物などで次第に豊かになっていく彼らに嫉妬したのではないか。

・東北・日本海側限定でDNAを調べてみると、EU(ヨーロッパ)型が15%を占めるのだという。
秋田美人、新潟美人という言葉を連想すると納得がいく。
また以前古い朝日年鑑で読んだのだが、戦前の男子平均身長が最も高かったのは岩手県だった。


■東北新幹線、二戸・八戸・七戸(十和田)という地名の由来
http://blog.livedoor.jp/gqsmj852/archives/51622912.html
(以下、上記HPより一部転載)
その新青森駅の手前から続く「数字+戸」の地名、
七戸(しちのへ)、八戸、二戸(にのへ)という駅名に興味を持つ人も多いのではないか。
雑誌で紹介される際は、戸は馬を飼う集落の単位を表わすという説明をよく見かける。
ネットでチェックしてみると2つの説を併記しているものが多い。
ふたつとは馬の集落説と軍事的集落説だ。
この辺りには、「奥州藤原氏のクニ」で書いた通り異民族が生活していた。
彼ら蝦夷(えみし)を北へ北へと追いやるための前線基地が「戸」と呼ばれたようだ。
基地といえども敵地には違いないので、回りにぐるりと柵を巡らし敵の攻撃を防御していたらしい。

柵というとつい牧場のような曲線をイメージするが、当時の造りは四角四面でそれぞれに門があった。
軍事目的ならば、一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)まで整然と並ぶ理由は分かりやすい。
地名は岩手県北部の一戸から始り、三戸(さんのへ)から八戸までが青森県になる。
そして最後、九戸は再び岩手に入る。

余談になるが、九戸は豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた地でもある。
九戸政実(まさざね)の九戸城は難攻不落の城で秀吉・家康軍はなかなか苦戦したと記録されている。
ちなみに九戸城は現在の二戸市にあるから少しややこしい。

話を巻き戻すが、蝦夷が蝦夷(えぞ)へ追いやられると、9つの基地の使い道がなくなった。
この空いた戸に馬(南部馬)を放牧することにしたのは南部氏のようだ。
南部藩というと岩手県という連想が働きやすいが、出は三戸だ。
その後に南部氏が広大な知行(領地)を与えられたので、盛岡城を築いて引っ越したのだ。

現在、四戸(しのへ)という地名はなく、姓として残すのみだ。
1000年以上前からある地名のことに想いを馳せながらの旅もまた楽しいのでないだろうか。


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■コロポックル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB
(以下、上記HPより一部転載)
・コロポックル(アイヌ語: コㇿポックㇽ korpokkur)は、アイヌの伝承に登場する小人である。アイヌ語で、一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解される。
・伝説
アイヌ人の小人伝説は北海道や南千島、樺太に広く流布しており、地域によって差もあるが、大体次のようなものである。
アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロボックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。 彼らは情け深くアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていたが、姿を見せることを極端に嫌っており、それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。 あるときあるアイヌの若者がコロボックルの姿を見ようと贈り物を差し入れるを待ち伏せ、その手をつかんで屋内に引き入れてみたところ、美しい婦人のなりをしておりその手の甲には刺青があったという(なおアイヌの夫人のする刺青はこれにならったものであるといわれている)。 コロボックルは青年の無礼に激怒し、一族を挙げて北の海の彼方へと去ってしまい、以降アイヌの人々はコロボックルの姿を見ることはなくなった。現在でも土地のあちこちに残る竪穴や地面を掘ると出てくる石器や土器は、彼らがかつてこの土地にいた名残である。
この伝説は地域によってたとえば「コロボックルは怠け者でアイヌが彼らに食べ物を与えていた」とか「コロボックルの手にあった刺青は捕らえたアイヌの人々が奪還を懼れて施したものであって元来からアイヌの風習である」という風な変化が見られる。

十勝地方に残る伝説では、コロボックルはアイヌに迫害されたために土地を去ったといわれ、去り際にアイヌに言った呪いの言葉「トカップチ(水は枯れろ、魚は腐れの意)」が十勝の地名の由来とされる


・下記のまんが日本昔ばなしは初めて見た時はゾッとした。(残念ながら動画はネット上にはなかったです。)
■あの世のいりぐち
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=1095
アイヌの民話

・下記のサイトにはたくさんお話が載っているが少ししか読んでません。
■アイヌ民族の伝説と昔話
http://www.kitakaido.com/menu/densetu.html


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■エビス、エホバ、円
http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2005/06/post_4a19.html
(以下、上記HPより一部転載)
旧約聖書の神エホバは文語訳のかなづかいだとヱホバなんだけど、これもなんかヘンだ。エホバはヘブライ語 ???? Yahwe [ヤハウェ](=Yahweh)のまちがったよみかたからきてるから、もともと「イェホバ」で、これもヤ行のはずなのにワ行のヱをつかってる。


■ヤハウェ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7
(以下、上記HPより一部転載)
ヤハウェ (YHVH, YHWH, JHVH, JHWH, IHVH, ????, Yahweh) とは、旧約聖書における唯一神の名である。


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