正義感。
先日、第0回のレインボーになれなかった人のために、の集いを開催した時にも、話題になった言葉です。
その時に、参加者の方から出た「どす黒い正義感」という言葉が印象に残りました。
私なりに解釈すると、自分の正義を疑わずに、まわりに押し付けの様なことをすること、そして、異を異として認めないこと、若しくは、誰かの義に異を唱えたり、安易に感化されることによって、自分を正義化すること、なのかな、と思いました。

フィクションの中の正義のヒーローは強いし、大概最後には悪役に勝ちます。
正義の名の下には、大概が屈します。
とはいえ、自分の正義=誰かの正義、もしくは救済、になるのでしょうか??

正義感を持つこと自体は良し悪し抜きに、それぞれが内包する価値観の1つだと思います。
正しい義。私は、ですが、各々の正義は振りかざすものでもなければ、押しつけるものでもなく、自分のなかで貫き通せばよい、だけのものだと思っています。
義を正に貫く。これが私の正義感に対する正義観です。

新聞やテレビで流れるニュースには、自己陶酔に浸れる程の正義のヒーロー気分を良くも悪くも感じさせてくれる情報や事象が満ち溢れています。
条件反射の様に正義感が生まれる様な。
ただ、条件反射には咀嚼、というプロセスが欠如しています。
もし、だれかの見解や事象に触れる際に、咀嚼のプロセスを踏まずに、安易にその発信者や事象に触れる場合、結果として見出されるのは他力本願、もしくは正義感という名を纏った衝動の暴発です。

さらに思うのは、咀嚼のない正義感の発動は誰に向かうのか、という点です。感化から生まれる咀嚼のない正義感は、例えれば銃口を発信者に向けるもの、もしくは、自己補完を発信者に求めすぎている、様にも見えます。
咀嚼しないままに答えを相手に求めることは、本当に容易です。悪いとはいいませんが。
ただ、厳しい言い方になるかもしれませんが、自分は正しいよね?、の答えを咀嚼せずに相手に求めて、そうだよ、という答えを貰うことで補完される自己は、ただの自己陶酔の域を過ぎず、自らで考えることを放棄している様に私には映ります。安心感はもたらされるとは思いますが。
また、感化も同じで、咀嚼のない感化は、よく言えば流れに身を任せている、否で言えば、流れにのまれている自分に疑問を挟まない、ことだと思います。

だれかの発信になにがしかの感情や違和感を持ったならば、まず読み解くこと、即ち咀嚼をしなければ、自分自身の見解や義にはたどり着けないと思います。
咀嚼のプロセスを経ることにより、私はこう思います、という見解は初めて自分のものになると、私は思っています。それは、他者とのコミュニケーションをとる上での前提条件とも感じます。

とはいえ、流れること、揺れ動くこと、不安の推移、は、あって当たり前なものだと思います。
そのときにすぐに答えの様なものが欲しくなることもあると思いますし、私自身もそういった衝動に駆られる時もあります。ただ、そんなときこそ咀嚼のプロセスを自分に課すことが必要だ、と自分に言い聞かせたりします。咀嚼は時として自分を楽にも辛くもするかもしれません。けれど、そのプロセスを経ると、異、や、違和感を感じる事象や発信に対しては真摯に向き合うことができ、多角的に物事を見ることもでき、他者とのコミュニケーションにも生産性がある、というか、楽しく、かつ、互いにとってよい関係性を築ける様に思います。

ただ、咀嚼、咀嚼、というと、1つ1つの言動や発信にためらいや、言っていいのかな、といった気持ちを持ってしまい過ぎる方もいるかもしれません。私が伝えたいのは、決してそういうことではありません。
あまりにも感化の連鎖や、昨今の正義感の横行に疑問を感じていたので、私なりの見解を述べたまでです。

また、咀嚼しても答えが出ないことも沢山あると思います。むしろ、出ないことの方が多いかもしれません。そんな時こそ、他者とのコミュニケーションや意見交換、対話が大きな役割を果たすと感じています。1人で答えを無理に出そうとすると辛く、苦しいときもあるかと思います。なので、咀嚼した自分の思いや見解を他者と共有したり、答えが出ないこと、そのもの、を感じ、わからないなりにわかり合える様なコミュニケーションを大切にしたい、と私は思っています。

そして、レインボーになれなかった人のために、は、そんな輪を形にしていきたいと思っています。