遡る、という程に前の話ではなく、このお話は2017年10月6日にミクシィさんと、堀潤さん主宰の8bitnewsさんが主催の「アライの輪を広げよう」イベントから始まります。
イベントの懇親会の時間、私は1人ぼっちでした。そんな私に声をかけてくれた方(今の同志)がいました。偶然にも私達は、同じ週に宇野常寛さんの水曜解放区の公開生放送に行っていたり!、話をするにつけ、共通の話題が次々と出てきました。
そんな中で、バイセクシャルのコミュニティってないよね、という話になりました。(2人共カテゴリー上ではバイセクシャルです) ないのならば、作ろう!
そんな言葉のやりとりの発展から始まったものが、レインボーになれなかった人のために、です。
LGBTsのシンボルとしてレインボーが社会に浸透しつつあります。可視化も大切だと思うし、浸透していったり、レインボーを心の柱にすることは、よいことだと思っています。
ただ、私は、「レインボーになれなかった」人なのです。グラデーションの中にあるカテゴリーのどこにあてはまるのか?、そもそもレインボー自体もカテゴライズなんじゃないのかな?…
レインボーになれなかったセクシャルマイノリティの人もいるんじゃないかな、もしかしたらLGBTだけの問題ではなくて、他のことにもあてはまるんじゃないかな?と、レインボーカラーが会社のシンボルマークになっていたり、可視化されたものを見ると内包している違和感がむくむくと顔を出してしまいます。
それは、可視化への違和感ではなく、そもそものカテゴライズへの違和感や懐疑心の様なものなのかもしれません。それは、セクシャリティだけではなく、まわりを見回してみるとカテゴライズがまるで社会で生きる為の補完装置の様に見えるのです。
共生社会の最小単位は、個。カテゴライズから解き放たれた個と個が対話や交流の中でフラットにゆるゆると、時には真摯に向き合う。みんな、おたがいさま。私が思う共生社会はそんな姿です。一方、共生の強制は、アライ、でも、おたがいさま、でもないと私は思っています。共生を、というのであれば、だれもがどこかで俯瞰の目で共生社会を考えるのもいいんじゃないかな、と思っています。
こんな考えを発信しようと思えたのは、最初の話に戻りますが、同志との出会いでした。そして、発信すること、伝えること、アクションを起こす事の大切さ、諦めない事を体現されている堀潤さんや宇野常寛さんの影響も多大な力となりました。自分が頭で考えていた事を発信し、アクションに。やはり、勇気がいることですが、ユーモアを忘れず、恥をかくことを恐れずに、発信しようと思っています。
今後の発信をフラットにゆるゆると、けれど、少しシビアに見ていただければ、と思っています。
発信はtwitterが主ですが、ブログでも活動のご報告をしていきたいと思っています。
最後に。レインボーからカラフルへ。
そんな社会を目指して。