臨死体験。

こういうトピックなると、急にオカルト感が出て来てしまうので、未だに、ごく僅かな人に話した事がないが、今、冷静に考えれば、〝あれ〟は、確実に臨死体験だったと思う。

2015年。病気(難病CIPO)を発症してから22年、37歳だった。
その頃の私は、もう固形物を食べることもできなくなり、500mlのペットボトル一本飲んだだけでお腹が苦しい状態だった。

どんどん痩せていって、一日中寝たきりに近かった。
だが、まだ確定診断に至っておらず、どの病院からも、〝心身症〟〝便秘症〟などと適当極まりない病名をつけられ、治療方法も分からないから、とあらゆる医療機関から継続的な通院も入院も断られた。
いわゆる、完全なる医療難民だった。

〝生きる為にどうするか〟を自ら考え抜き、仕方なく、自分で、当時住んでいた港区の訪問診療車を行っているクリニックを見つけ出し、電話で交渉して、自宅で、1日1.5リットルくらいの高カロリー輸液(※普通の点滴は水や電解質のみだが、そこに必須アミノ酸などが入っている優れもの)を毎日落とす事で命を繋いでいたあせる


ただし、毎日点滴の為のルート確保(🟰点滴を落とす為の静脈確保)をお願いするのはコストも高いし汗、通常病院でも数日は持たせて使うものなので、3日に一回くらいのペースで在宅医療の先生とナースがルートの差し替え予防接種に来てくださっていた。


ある月曜日の朝、ルートの入っている部分が軽く赤く腫れ、痛みがあった。
息子をプリスクールおすましペガサスに送って帰って来た直後の事。

〝まずいな…昨日から痛かったとこだ。ルート感染の危険があるから、急いで抜いてもらわなくては…〟
↑↑↑
の思考の途中くらいで私はトイレ脇でぶっ倒れ、全身の震えで全く動けなくなった。
(これは俗に、shivering🟰震え と呼ばれ、感染症に罹患した時やオペ後に起こる事が多い。)

何せ微動だに動けない上、歯がガクンガクンして全く話す事ができないガーン

その日はたまたま、家事を手伝ってくださっている方が朝、いらして下さり、彼女が在宅看護のクリニックに急いで連絡、救急車が到着した。救急車

当時住んでいた港区は、周囲に沢山良い病院があったのだが、
〝一番近いから〟
という理由で、マンションから徒歩1分の小規模病院のERに搬送された。

〝マジか…この病院は……大丈夫なのか…〟


嫌な予感ほど当たるものである。
搬送時の私の体温は39.8℃・嘔吐し続けて極度の脱水・心拍数 140bpm・呼吸数35/mim・血圧低すぎて測定可能…。
誰も腕の発赤には気づいてない。

「そこの医者ども!! SIRS〟だってばあせる
全身に炎症がおよんだ状態。重症敗血症(severe sepsis)」←Emmaさん必死の心の声
相変わらず震えで歯のガチガチが止まらず、医師達に私の声は聞こえない。

そこに若手が採血結果を持って来た。

「WBC(白血球)1900でした!上がってないんで大丈夫ですね」←プチドンッ!Emmaさん脳内血管切れる

「おーいビックリマークsepsisで白血球がむしろ下がる方がヤバいって医学部で習っただろはてなマーク大丈夫じゃねーぞー!殺す気か?バカモノー」←Emmaさん心の雄叫び

こうして私は、救急搬送されたにも関わらず、30%〜40%の致死率を誇る〝敗血症〟を見逃され、抗菌薬もなく、24時間で500mlの点滴一本という、究極、死と隣合わせの状況に立たされた。

あゝ…信じられないくらい頭が痛い。歯のガチガチに加え、ひどい脱水で目が開けられない。




救急外来から病棟に移った時、私の意識レベルは、2桁まで下がっていた。


そして、この部屋で私を待ち構えていたもの。
それは…

本物の地獄が始まった。(続く)