-ドバイについてからわたしはDeira地区にあるFlora Grand Hotelに滞在している。

メトロ Al Rigga Stationから徒歩で5分以内なので、地下鉄に乗っていろいろと歩いて周っている-



中東発! 裸で地球を生きる Eimee's Diary-women kids

(女性と子供専用車両。ゴールドという車両もあり高い。さすがアラブ的考え方、お金で全て手に入るみたいな)


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今までの28年間の人生の中でわたしは二つ大きな悲しみを体験した。

ひとつは23歳のとき、たったひとりの大親友が突然この世から消えてしまったこと。

ある朝、携帯電話にかかってきた電話でわたしはその知らせをしった。

ニューヨークへいくために日本でビザを取っている間わたしはたまたま日本に帰ってきていたので、

白くなった・それでもとっても美しい彼女の顔もみることもできたし、お葬式において彼女への思いをたくした弔辞を読むこともできた。


きっとわたしの心は空っぽで、その直後移り住んだニューヨークだったからあの一年はほんとうに何もかもうまくいかなかったのかもしれない。マンハッタンの道をひとり歩くたびに、自分はこの地球上でひとりぼっちになったんだと感じた。


彼女がいなくなって涙がとまらないわたしは、電話のむこうのボーイフレンドに、”わたしの親友になって”と心から叫んだ。彼は、”僕は君の一番の友人だよ、ずっと親友だよ”と優しく包み込むように言ってくれたのを今でも思い出す。



ふたつめの大きな悲しみは、その彼と2010年春、お別れしたことだった。

わたしは一ヶ月間何も食べれなくなった。体全体と肌すべてで悲しいと感じ、心臓と胃の感覚が手にとるように感じられるようになった。どくんどくんと自分の心臓が痛んで叫んでいるのを毎秒、起きた瞬間から感じた。

ものが食べられない。唯一口にできたのはトマトジュースだけだった。

トマトジュースなんて気持ち悪くて28年間一度も飲んだことのないわたしの体が、トマトジュースを欲した。

バナナも無理やり食べれるくらいで、毎日ふらふらだったけど、彼がわたしのこれからの人生にいないのだというこの新たな現実がわたしにはきつすぎた。


彼が全てだったから。わたしのエネルギーであり、将来の希望であり、毎日をいきる理由であり、自分が生きている証だった。そして唯一の親友だった。










ブログなんて書くものかーーと思ってたけど、あたしの生きている・体感している人生があまりにも面白いので書く気になった今日である。


あとの日記で触れることになると思うので詳細はあとにとっておきます。



2010年6月1日3:30AM ドバイに着いた。

もちろんわたしひとり。わたしは駐在の妻さんでもエミレーツのキャビンクルーでもありません。


28歳独身の女の人。



10日がたった。この10日日ひとことでいうと、最悪・最悪夢だった。

言葉にできないくらい。こっちで働くためにやってきた。労働ビザもあり、会社が用意してくれたホテルにとりあえず滞在しているが、日本の会社ではなくアラブの会社なので、待遇が本当にありえないことになっている。


まず、10日の間あたしはまだ一日しか働いていない(働かせてもらえていない)。

ずっと一人ぼっち。ホテルに一人。もちろんこの町、国に知り合いは一人もいない。

外を歩いているのはインド人男性ばかり。正直怖い。

人種差別や先入観ではない。

わたしは10年間外国でひとりいきてきたので、本当にオープンな人間で特に人種や宗教へのprejudiceはもっていないし、人の価値観やライフスタイルに関しては自由だと信じている。

そんなわたしでも恐怖ではないが、居心地がとてーーーーも悪い。

彼らの文化なのであろうが、目つきが悪く、怖い。わたしは女の子だし常に一人で歩いているので、じーーーーーーっと毎日毎日見られるので、動物園の動物になった気分で、ほんと心地が悪いものだ。




といってもこの10日間の辛さ、悲しさも、前の経験があるのでなんとかなっている。

わたしがそもそもドバイにきたのは、悲しい・とっても・人生で一番悲しく辛い別れを味わったからだった。


わたしは17歳で一人アメリカの学校へ交換留学し、それからずっと一人で結婚もすることなく世界と日本を行き来しながらバタバタと思うがままに生きてきた。



ロサンゼルスで学生をしているときに出会ったギリシャ系アメリカ人の彼と22歳のときから付き合っていた。

ロスで出会ったが、付き合うことになってから一ヵ月後からわたしたちは遠距離をずっと続けてきた。6年間。

彼はオハイオ州の大学院生を経て、phDへ進んだ。

そのあいだ、わたしはロスでウェイトレスしたり、オハイオに移り住んだりした。オハイオは肌に合わず、彼も同棲をする気がなかったので、身軽なわたしはニューヨークに移った。学生ビザをとって住んでたけど、実際は日本のすし屋さんでバーテンダーをしてだらだら過ごしてた。

ニューヨークという町は東北出身の自然・広くて空気の良い安心した環境を好むわたしには本当に肌に合わなかったし、いろんな面で苦労した。

ルームメイトのアフリカ人の人にはお金10万ほどを返してもらえず、Civil Courtにいって自力で裁判まで起こした。そのあとにあたったルームメイトも本当に変なひとで、あれも最悪だった。

結局気力もお金も底をついたので、日本に帰国した。


もちろん彼とはずっと続いていて、わたしは東北の地元で英文事務の派遣をして働くことにした。

これも5ヶ月の短期のお仕事。彼との関係を保つことがわたしには一番大切なことだったから。。

数ヶ月ごとに会いにいけるような人生を歩むことにした(そのときのわたしがそうしてしまった)



英語が大好きで日本の文化や生活に慣れることができなかったわたしはまだ外国で出たいと思うようになったので、ネットで就職活動をした。


ドバイのM社の営業事務もうかったが、もう一つ受かりそうだったニューカレドニアでのツアーガイドのほうに惹かれることろがあった。

結局ニューカレドニアのオファーを選択した。


それから2年後、わたしはカタールのM2社の人事総務のポジションに採用がきまりカタールに6ヶ月住んだ。


それが全ての悪夢の始まりとなるとは、全く予知もしなかった・・・。



カタールがあり、あの失敗があり、悪夢があり、そして今わたしはドバイに来た。