ホメオパシーがもの凄く難しいものだという印象をつけてしまったとしたら、それは違います。何事も真剣に取り組めば苦労をするということです。料理を学ぶときに、冷蔵庫の残り物料理が作れる料理人を目指すのか、三つ星シェフの料理人を目指すのかで、学ぶ時の苦労の度合いは全く違うということです。

・・・では、続きです。


具体的な言葉は忘れましたけれど、受けた印象としてはホメオパシーの世界観はそんな狭いところではなくて、鳥のように上空から地球を見る、いや宇宙ステーションから地球を見る、いや全宇宙から見る、宇宙の裏からも見る、そんな感じなのだと。分かったような分からないような、でも分かったような、ただ、自分の世界観が狭くなっていたことは分かりました。

混乱と混沌が起こるということは、自分のCapacityを越えたことを意味しているのだと。もがくことこそが大切なのだと。自分の領域を越えなければ楽だが進歩はない。筋トレなどと同じなのだと思いました。先生方は口々に「進歩しています」とおっしゃいましたが、それを素直に受け止められない自分がいました。自分では実感できなかっただけ。実感できる視点ではなかっただけなのだと思いました。

自己肯定がなかなかできません。先生方は、もがいた後に抜け出せる程度の課題を次から次へと投入してくるので、もがき続けて息継ぎをする暇もなくて同じ場所で溺れていたと思っていただけなのかもしれません。


そして、ホメオパシーを学んでいる同級生が何人かおります。一緒に学ぶとですね、相対比較をついついしてしまう自分がいます。比較に意味はない。あたまでは分かっていても、感情が一致しませんでした。

質問をすれば殆ど「うーん、いい質問ですね!」と言われる方。物事の核心を射貫く姿に驚異を感じ、羨ましく感じ、嫉妬と劣等感が頭をもたげます。コツコツと勉強し続けて先へ行ってしまっている姿を見たり、物事の全体像を掴むのに長けている姿にも驚異と羨望と嫉妬と劣等感が頭をもたげます。

焦りと不安、置いてけぼり感に包まれていました。でも、話を聞いてみると、それなりに皆さんは苦しんでいるようです。自分にないところを他人の中に見いだすように、他人が持っていなくて自分が持っているものがあるのだ ということに気づきませんでした。愚かでした。自己中心的でした。視野狭窄に陥っていました。人は渦中にいるときは周りが見えなくなってしまうのだなとつくづく感じます。

みんなで補い合いながら、誉めあいながら、傷を舐め合いながら、慰め合いながら、共に歩んでいける友がいることは幸せなことです。チューターさんからも言われました。相対比較して自分がトップだったら、きっと私は勉強をしないだろうと。だから、この同級生達の存在は切磋琢磨するにふさわしいということを教えて頂きました。よく見てらっしゃる。。。 その通り!

学長はこうもおっしゃいました。人には大まかに2つに別れる。勉強による知識を得るタイプと、ひらめきで全体を把握できるタイプと。しかし、学びの先にはどちらか一方では成立しない。学びによる努力による蓄積は間違いなく将来の役に立つが、ひらめきがなければ価値は発揮できない。逆に、ひらめき型も学んで知識を蓄積しばなければその価値は発揮できない。行き着く先は一緒だということですね。南ルートと北ルートのようなものでしょうか。ともかく登る。

で、

結論はいたってシンプル。
学び続けるだけ。
私はコツコツ型ですが、
居眠りするのろまな亀だと例えたら、
学長から自分は居眠りするカタツムリだと返されました。
ひらめきはいつか来ると信じて続けましょう。
あとは先生方の仰ることに素直になるだけ。
無意味な自己判断はしないこと。
相対比較は劣等感を生むものではなく、
切磋琢磨の燃料にすること。

で、ヨガのお話。

ヨガを学んだとき、自分の身体が硬くてポージングができない。できるところまでで構わないと言われても、周りで行われている美しいポージングに囲まれると不様すぎる。こんなところでも羨望と嫉妬と劣等感が頭をもたげました。

ヨガの目的は自分を見つめること。絶対的な自分の存在を認識するだけ。相対から絶対へ。「対:つい」を「絶:たつ」絶対。この点を忘れてはいけないのですよね。自分の状況を淡々と見つめ自覚する事こそが大切で、周りのポーズは何ら意味はない。

学びで悩んでいて、学長のお話を聞いて、そんなことを思いだしたのであります。こんな話にお付き合い頂きありがとうございました。知っているのと、解っているのとは違うし、腑に落ちているかどうかもこんな時に分かるのだなと思います。


まだまだ 学びは続きます音譜