12年振りくらいで本格的な風邪を引いて発熱した。引いて徐々に悪化して3日経過してから37,5度程度なのでインフルではないと自己診断。宿泊先で寒くてエアコンを強めにかけたまま寝入ってしまい、汗びっしょりになって覚醒。この時には既に鼻の奥に違和感があった。締まったと思うも、この程度は時々あったし、すぐに身体が対応すると思っていた。しかし、今回は違った。日増しに自覚症状と他覚症状が出現。年末年始はかつてない酷さのギックリ腰となり動きを止められ、やっと動けるようになったら風邪を引かされて寄り切られた。自然医療的にはこれを「やっと風邪を引けるようになれてよかったね」となる。風邪の症状を全うすべく、自宅に戻ってからはひたすら療養して回復の傾向にある。身体の声を素直に聞くことを実践するのは言うまでもない。食べて良いと言われるまで食べない、寝ろと言われれば寝て、寒いぞと言われれば温まり、出せと言われれば出し、動けるようになってもそんなに動くなという指令もくれば静かにする。丁度、今週は講演会の仕事も何も予定のない、まるまるのお休み週間。そういうことなのかなと。

余談が長くなった。本題に。

身近な方が手術を受けるのに色々悩んでいる。色々考えると結論が出ないのは良く分かる。そこで、どのように考えるのかが重要である。手術に対する考え方はこうと思っている。

自分にとって避けて通れないのか?
自分にとって必要かどうか?


こう書くと簡単である。手術の基本は「避けて通れない」場合に限られると言っても過言ではない。必要とは「必ず要る」かである。いま避けて通れない状況であれば迷っている暇もない。いわゆる「緊急手術」の部類である。交通事故で開放骨折だとか、脳出血で意識不明だとか、緊張性気胸で血圧が下がっているとか、そんな状況下である。救命救急の世界に多い。

問題は手術までに時間がある場合、多くの人はそれが判断できていない。その理由は判断する知識が乏しいからである。そもそも緊急手術ではないなら、元々必要な手術ではないかもしれない。手術を受けるか否かは病状説明後に患者自身が決めることが少なくない。そう。素人が最終判断をしなければならないのである。これは医師法がそうなっているのでやむを得ない。強制的に患者さんの意思に反して医療は行えないので同意書を必ず書いて貰うのである。「同意」できるかどうかの判断である。我々が行うことは提案と推奨に限られるも、脅迫する医者も少なくはない。。。 脅迫医者に命を預ける意味はあるのか? よく考えて欲しい。

では、判断するためには何が必要かといえば、知識である。
では、どの知識を優先するのかといえば、主治医である。
主治医で納得できなければセカンドオピニオンである。
捕捉としては、書籍がある。
あとは、テレビ番組、ネットの情報、知人、友人、他人、噂話し。

情報に翻弄される ということは 本質に辿り着いていない ということを素直に認めなければならない。

書籍はどの視点から書かれているのかで180度変わる。ネット情報はピンキリで選別は難しい。テレビ番組はスポンサーの意向が反映される上に面白くする特殊性を帯びているので鵜呑みにしてはいけない。知人、友人、他人の話は専門的ではないし、本人の主観が混ざるし、基本的に参考にする必要はない。噂話は判断基準の邪魔にしかならず、もはや聞く価値がない。しかし、見ていると噂話や自分の身近な人の話を信用する傾向があるので、冷静に物事を判断する第三者の介在は必須と感じている。

やはり、主治医の意見が最優先となる。故に、徹底的に、納得できるまで、説明を求めて、自分の中で手術の是非を判断できる基準の精度を学びによって上げ続ける必要がある。

それができないと言うならば、諦めるしかない。自分の人生を決めるのは自分自身であり、全ての責任も自分自身にあることを忘れてはならない。責任の重さに耐えかねて自分自身から逃げてはいけない。だからこそ、その意気込みに呼応できる主治医でなければならない。そうではない主治医へ命を預ける価値は無い。地元になければ隣町へ移ってでも主治医を変えた方がいい。大変なのは分かっているが、自分の人生の話しである。家を買う以上に重い責任を自分に課すのだから当然と言える。

次にその主治医の説明をどう解釈するかが重要となる。

病状説明はインフォームドコンセントと呼ばれている。コンセンサスの方が好きだが、紙に書いて事細かに説明が行われる。医学知識が無くても分かるように説明できるかが重要であり、分からない言葉はすぐに質問するか、あとでまとめて質問する。録音して自宅で聞き直したり文字興ししてから日を改めてからでもよい。

さて、裏事情だが、医者の心理的な最重要ポイントは「どう説明したら訴訟を最大限避けることができるのか」だと思ってよい。常にそれを考えている。健診で見逃しがあって損害賠償、手術による障害で損害賠償、適切な対処をしても患者さんが亡くなれば業務上過失致死で逮捕、こんな世界で生きていくのであるから身を守ろうとする心理は当然である。これを患者さん側が理解しておかなければならないのである。

手術説明はだいたい「**を切除すると**が起こったり、**な不具合が起こる可能性があり、手術後は**なことがあったり、**なことがあったり、**なことがあったり、、、、、、」となり、どんどんと手術が恐くなり、どんどんと暗い気持ちになっていく。これらの説明は確かに起こる可能性があるけれど、全部なる訳ではない。外科医の基本は手術をしたいと思ってよいけれど、その前に、医者が自分の身を守る為の説明を行うことが基本なのである。神の手であろうと失敗することはある。

可能性=そうなる ではない
説明した=責任を果たした
である

納得と同意により、同意書へサインした時点で、余程の事が無い限りはサインした人の責任が主となる。

また、日本の言う平等ということで、卒後1年生でも、神の手でも、手術料は同じである。個人的なお礼なんぞ不要なのである。では、誰を選ぶのか? も重要となる。主治医へ経験値はどれくらいかと聞けるのか? 聞かなくてよいのか? どうする? その主治医でよいのか? その病院でよいのか? さあ、どうする?

自分、どうしたい?

やはり最終的にはこれが重要だ。で、どうするかは、ご自身で判断基準の精度を可能な限り上げて下さい。とことん納得できるまで吟味して下さい。些細な疑問も放置しないで下さい。そんな信頼できる主治医と巡り会って下さい。手術したときとしないときの自分の今後を天秤にかけてみて下さい。幸せが少しでもイメージ出来ますか? その上で必要性を判断して下さい。ともかく、最終的には自分自身が全てを決定してください。妥協するなら自分の責任でしてください。

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