前回の赤ん坊編は昔話で余り役に立たなかった気がするので、こんどの幼児編はどうかな。

長男か長女のあとに赤ん坊が生まれたら、下の子供にかかり切りなる。そうすると上はひがむので相手をするのが大変だ。大抵の親は優先順位の高い下の子供のお世話を優先して、上の子は「お兄(姉)ちゃんだから、いい子で待っててね」と言ってしまう。

これをやってはいけない。

上下の関係を無視して考えてみよう。2歳、3歳、4歳の子供に「遊ぶのを待て」と言われて、素直に聞くのか?

まあ、無理だろう。

更に、言うことを聞かそうと従わせてはもっといけない。「いつも同じ事を言わせないで!」とか「何度言ったら分かるの!」も言ってはいけない。

これは禁句だ。

だって、分かっていたらやらないからである。ならば、分かるまで何度でも繰り返して教えていこう。優しく、語りかけるので充分だ。怒れば「怒られた」という事実しか子供の心には残らない。そんなことを続けていると心が歪むだろう。親に愛されていないと思い込んでしまう。ずっと続くと心を閉ざす可能性が有る(そう簡単にはならないからビクビクしないで)。親の大切な物を壊すかも知れないが、怒ってはいけない。形ある物はいつかは壊れるという前提で子供と付き合おう。壊されては困る物を置いている方が悪い。

っ、そうだ。わざと悪い事をやって親の注意を引こうという作戦の可能性も有る。この場合、親が子供にされているのだ。もしかすると、子供への愛情を注ぎ損ねて子供が不満に思っているのかも知れない。もっと私をて欲しいの! ということがないか、胸に手を当ててよく考えてみよう。子供からの警告を無視せぬように。

話しをもどすが、

赤ん坊は泣いていても死ぬ事は無い。だから、先に上の子供に向き合おう。文字通り向き合うのである。返事だけして赤ん坊の世話を続けたり、顔を横に向けるだけではいけない。一対一で真っ正面から向き合うのだ。後ろでは赤ん坊がおむつ替えの途中で丸裸かも知れないし、ミルクが途中かも知れない。でも、死にはしない。でも可哀想な感じはする、、、が、我慢である。

上の子供を抱きしめてチュッチュしながら耳元で囁こう。「◎◎ちゃんが泣いてるね。一緒におむつを替えるの手伝ってくれるかな?」「~、一緒にミルクをあげようか?」などと誘う。頑なに手伝いを拒んで遊んで欲しがったらしかたない。少し付き合おう。泣き真似も時には役に立つ。その辺の細かなやりくりは男親は経験不足なので伝えきれないが、上の子供を満足させる事を優先するというのが基本だ。

あと、

出掛ける時には不測の事態が良く起こる。電車の時間の前にウンチだの、転んで怪我をするだの、計画通りに事が進まないことが多くて「早くしなさい!」とかイライラする。帰る時間が来ても遊んでいて帰りたがらないと「帰らないなら、置いていくよ」とか言ってしまったりする。怒って言った後に自己嫌悪に陥ったりもする。

ここでの問題は、行動する時間めるからいけないのだ。を連れて行動していると思った方が良い。いつ牛が糞をするか分からないし、いつまで草を食むのかも分からないし、寝転んで動かなくなるかもしれない。行動は牛次第だ。子供と牛との違いはヒョイと抱けるか否かだが、子供は400キロの牛だと思おう。暴れる子供を怒りにまかせて抱きかかえて連れ去ってはいけない。少なくとも説得しなければならない。間違えても「いていくぞ!」は禁句だ。

「もうらない! 勝手にして!」~ これは育児放棄だ。自由にさせるのと、放置するのは全く違う。とことん付き合う根性が親には必要だ。

この様な日々が子供との付き合いとなるので、予想を上回るほどの時間的余裕を持つことが必要なのだ。途中で3時間くらい噴水から動かないかも知れない。砂場から離れないかも知れない。電車が見える鉄橋から動かないかも知れない。子供は遊びに満足するまで動こうとはしないのだ。当初の計画が狂ったら(いや、狂うものなのだ)、もうそれでいいという心持ちで心穏やかでいよう。

子供と一緒に居られるせを噛みしめよう。

子供は充分に満足したらその場を離れて親元へ戻ってくる。90%で中断させたとしても、子供にとっては最初からやらなかった以上に不愉快を感じる。それが続くと「いつもやらせてもらえない」という不満が渦巻く。しかし、親は90%やらせたと自負している。そんな大人の論理は子供へは通用しない。逆に、100%満足するまで付き合うと穏やかになる。

子供基準で物事を考えよう。

ともかく、とことん満足をさせるまで覚悟が必要である。計画は狂うものという前提があればイライラすることは無い。日も暮れてきたら「夕飯の準備をしたいから、そろそろ帰りたいなあ」などと子供へお願いしてみる。「パパのご飯が作れなかったらパパが可哀想でしょ?」などと情に訴えるのも良い。子供は好きな人が困ることを嫌うのだ。



子供の成長しようとする芽を摘んではいけないというが、やり方としては イエスさま とか 孔子 とか ブッダ とか スティーブジョブス とか 本田宗一郎とか 将来凄い人になる子供が産まれてここに居るのだ と思って接すれば間違いは無かろう。

子供はさくてくて未熟だから親のから目線で見してはいけないのだ。


結局、子供は牛なのか聖人なのか分からなくなっているが、何かが伝われば幸いです。