美濃金山城跡 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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国史跡


美濃金山城跡

別名(烏峰城)


所在地 岐阜県可児市兼山

築城年 天文6年(1537年)

城郭構造 梯郭式山城


行ってきました!


岐阜県可児市で

美濃金山城跡国史跡10周年、


「山城に行こう」というイベントがあるという

ことを

聞いたのと以前コロナ禍で麓まで行ったのですが、

「今度登りたいね」と取っておいたところでもあります。



パンフレットより







駐車場には

「山城に行こう」というのぼり旗があり、

ここに車を置くこともできますが、

今回は、この上まで行けて駐車場もあると

いうので、行けるところまで行きました!




このくらいまで車でいけますが、

細いのですれ違う時大変かも?です。

幸い、早朝だったので大丈夫でした。





駐車場に着いてからは


整備されているものの、

足元は石ころがあるので

しっかりと山登りに適した格好が

必要です。










三の丸門跡



美濃金山城は美濃の中央に位置し、木曽川は東山道を

眼下に見る要衝にあることからも

美濃の統治のための重要な城でした。


本丸跡の標高は276m、城下町とは170mの比高差があり、

平成25年に国の史跡にしてされました。


美濃金山城の歴史は

天文6年(1537年)の斎藤大納言正義(妙春)による

築城されたことが始まりで

当時の城は「烏峰城」と呼ばれていました。




破城(↓で説明)の痕跡として

一番上の角が崩されていて破城の痕跡が残っています


二の丸西面石垣


この石垣は加工していない石を積む

「野面積み」という積み方で作られています

隙間に間詰めという小さな石が詰めれています




古城山払下げ記念碑


古城山とはこの山のことで、江戸時代には兼山の地を

尾張藩のお留山となって村人の立ち入りが禁止されていました

(1601年城が破却される)

明治時代には皇室の御料林となっていて、

昭和20年(1945年)以降は国有林となりました。

この山の払下げは住民の念願だったようで

昭和28年(1958年)に払下げを受けた翌年に

碑が建てられたそうです。







二の丸跡


礎石の跡から、渡り廊下のある建物があったと

考えられていて、南側と西側に石垣があります




















天守(御殿)があったとされる場所で、

本丸を囲む斜面にが石垣が見られ、

南側に虎口がありました。

多くの礎石が残っていたこともあり、

大きな建物があったとされています。













 破城」

城を故意に破壊して再び城が築かれないようにすることを

破城と言い、美濃金山城跡には多くの場所に壊された石垣が

残っています。

全ての石垣は自然の石を加工せずに、野面積みと呼ばれる

積み方で、石垣の裏側には排水のための裏込め石が

詰められています。

角は強度を増すために長方形の石を交互に積む、

算木積みが残っています











木曽川→犬山城


右手側には岐阜城もありますね。


左手側には小牧山(見えてない)あると

いう位置になるんですね。




※信長の正妻は斉藤道三の娘帰蝶と言われて
いて帰蝶の母で
明智氏出身の「お見の方」とされている


地理に疎いこともあり、

この東美濃の山城を数回にわけていって

やっと一帯の重要さが

わかったように思います。


本丸からなる眺望には

明智城もみえ、周辺の城の様子もわかり、

下に流れる木曽川の需要さもわかってきました。


この城がもつ重要ないくつかの時期があると思います。


①  斎藤家(道三)による土岐氏への下剋上

②  道三亡き後の織田信長の時代

  森家統治の時代

  信長が亡き後(本能寺の変)による

  小牧長久手の合戦においての役割


③城の破壊→「犬山城」へ

 (破城の痕跡)


※犬山城との見解とは少し違うようですが💦











👆の碑より


室町末期天文6年(1537年)

斉藤道三の命をうけ、その猶子斉藤大納言正義は

この山頂(標高276m)に築城、烏ヶ峰城と称し、

中井戸の庄の地名を金山村と改めた。

豪勇無双近隣に武威をふるった斉藤氏も

天文17年(1548年)久々利城主土岐三河守に

討たれた。正義時に33才。


時移り永禄8年(1565年)織田信長は東美濃経略の

拠点として森三左衛門尉可成を封じ、

金山城主7万5千石とした。


以来、森可成・長可・忠政父子三代の居城として戦国

波乱の歴史を彩った。

すなわち、可成は元亀元年(1570年)9月20日

近江宇佐山で浅井・朝倉軍と戦い討死(47才)、

これより先、長男可隆も4月25日朝倉攻めに初陣・

敦賀天筒山城で討死している(19才)


天正10年(1582年)3月9日には甲州武田征伐の途中、

信長は金山城に一泊している。

同年6月2日未明、明智光秀謀反による本能寺の変で

信長(49才)とともに討死した

可成三男の蘭丸長定(岩村城主5万5千石・18才)

4男坊丸長隆17才、5男力丸長氏16才の三兄弟はともに

金山城で出生・信長の側近・近習として仕えていた。


二代城主可成の次男長可はことのほか、武勇にすぐれ

「鬼武蔵」といわれた。

岩村城主5万石も兼ね信州海津城主でもあった。

伊勢長島一向一揆征伐に偉功をたてた。

「可成寺」を創建、城の改築や城下町づくりにも

意を用いたが

天正12年(1584年)4月9日、

長久手の合戦において討死(27才)、

僅々15年ほどの間に父子6人もの悲報に接した

可成室・妙向尼の悲嘆のほどが偲ばれる。

三代城主六男忠政は金山城で出生、跡目を継ぎ

15才で7万石を領し豊臣秀吉に仕えた。

金山城の整備拡充を手がけたが九州、小田原等に

転戦・知略の将と重んじられた。

慶長5年(1600年)徳川家康の命により

信州海津城(13万石7千5百石)に移封、

金山村及び金山城は犬山城主石川備前守光吉の領有となる。

天守諸櫓等一切をとり壊し木曽川を下して犬山城郭の増築・

修復に使われたという。

忠政は慶長8年(1603年)美作国18万6千5百石に

国替えとなり以後13年かけて津山城を完成、

現在の岡山県津山市の基をつくった。

斉藤・森氏を通じ、在城僅か40数年であったが

戦国動乱の世に名将として武威発揚もめざましい

一方で城郭整備「六斉市」をはじめとする

商業振興など城下町づくりに力をつくした。