5月14日は
「真・三方ヶ原の合戦」を視聴しました。
徳川家康の数々の戦の中で
最大のピンチだった言われている
「三方ヶ原の合戦」
三方ヶ原といえば、夏目吉信が家康の
身代わりになって
家康を助けたエピソード。
山岡荘八の小説を大河ドラマ化した「徳川家康」
では、本多忠真は戦死とだけ取り上げて
いたし、
家康が浜松城内に逃げ込むと
あまりの恐怖に対して家康が
馬上で脱糞
しまっているのを
本多作左衛門がみつけて大笑いしていると
「腰につけた焼き味噌じゃ」と
負け惜しみをいう家康像を浮かべて
いました。
私は最近まで「夏目吉信」と思っていたのですけれど、
一次資料というのでは「夏目広次」と
言われていることもあり、
今回はそれを印象付けるためなのか、
家康が名前を間違えて
なかなか覚えないという
設定にしていたのかと思いました。
それにしても執拗なまでに家康は
夏目広次の名前に対して間違っていたので
「なんで?」と思っていました。
いやいや、全部第18回で疑問符に対しての
?が回収されました。
泣かされました😭
後からですが、NHKが配信されている甲本雅裕さんの
インタビューをみました。
甲本さんは早いうちから演出家の方から
「早めに第18話を読んでいてください、
読む読まないでは大違いだと思います」と
言われて、最初の方から18話あっての演技を
していたそうです。
そうなんですね。
家康が名前を間違えて呼んでしまって
複雑な顔をされている感じや、
一向一揆で死罪を許された時のあの泣き方とか
ちゃんとそれまでの積み重ねから来ているもの
だとあらためて、感動してしまいました。
私は以前山岡荘八の本を読んで
夏目吉信(広次)を知ってから、
中学の通学路の途中、
新宿区早稲田にある「夏目漱石の家」をみて
過ごしていたことを思い出しました。
何気なくいつも通っていた夏目漱石ですけれど、
もしかして?と思って調べたら
やはり「あの夏目」が「この夏目」だったのです。
現在は「漱石山房通り」
※漱石が晩年を過ごした家があったところです。
私が知っている限りでは、普通の家があって、
その前に立て看板がしてあって、
夏目漱石の家だったところなんだ?と思って
通っていました。
2019年のことですが、懐かしくなって
帰省した時に行ってみた時の写真です
👇
2019.12月撮影
懐かしい?
いやいや、すごく変わってしまっていたので、
‼️びっくり‼️
でした。
今回、夏目広次(吉信)は甲本雅裕さん、
連想ゲームではないですけれど、
ブルーハーツの甲本ヒロト(実兄)を
思い出します。
話はそれましたが、
※第19回では👆の家康が馬上で漏らして
しまったことなどは、柴田理恵さんが
出てきて噂話で回収していましたね😀
5月21日は第19回
「お手つきしてどうする!」
家康とお万とはいとこであった⁉️
そ、そうなんだ。
母方のいとこ同士?になるんですね。
このドラマでは瀬名の侍女であったと
ありますが、
お万は、通称は於古茶、お万の方、小督局
ともいわれています。
父は、三河国・智(池)甲斐鮒大明神、
現在の知立神社の神職である
永見貞英
永見志摩守貞英(吉英)である
母は、水野忠政の娘
家康の母於大は、水野忠政の娘
お万は、天文17年(1548年)生まれです。
(家康は天文11年生まれ)
浜松において奥勤めの所(湯殿)、懐妊。
、とあります。
於大の方(家康の母)がやはり、
奥勤めをすることになる経緯は関係して
いるような気がします。
※水野忠政の娘の子どもだと考えるならば
わざわざ、於大の方の奥勤めを
させるでしょうか?
もしかしたら、正妻である築山殿に知らせずに
於大の方は家康に側室としてあがらして
しまって、懐妊したけれど、
瀬名は聞いていないと言って認めなかったの
かもしれませんね。
つい、今回の瀬名(築山殿)と家康の
関係を前提にしていますが、
そうではなかったのかもしれません。
後の結城秀康を産むことになりますが‼️
続く…