徳島城…② | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

徳島城は約61mの城山に築いた城です。


太古には海抜が今より5m〜10m高かった頃は

「島」と言っても良かったと思います。



  

本丸跡には「清玄坊神社」がありました。


案内板によると


清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあたり

天皇より、「源氏」の称号を賜り、後に修験者と

なり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てて

いた。蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全寺社

に移転を命じたが、清玄坊だけは頑として

これに応じない為、公は一計を編み換地を与えると

言って城下に連れ出し、紙屋町を通行中、後ろから

弓で射て謀殺した。

途端に蜂須賀家には変事が続出したので公は

静玄坊の祟りに違いないと、前非を悔いて

石碑をたて、末代まで供養する事を誓ったところ

此の変事はピタリと止まったという。

依頼紙屋町の住民は毎年お祭りを続けている。


清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、

父の菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたかで、

現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。

次男右京院、三男左京院は難を逃れて、

阿波郡の東西善地に落ち着き、祈祷の

傍ら農業をしながら、酒巻家として

今日に至っている。


その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の

創始者であり初代校長でもある。


また真珠湾攻撃で魚雷不発の為、

九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も

此の子孫である。











清玄坊と言う資料もあれば、大林院素月、

または河内國丹南の住人大林某今川義元に仕え

今川氏滅亡後、修験道を修して

勢月と號し字を寛理と稱した。

元亀元年(1570)勢月は入寂し、其の子奈月

(素月?)衣鉢を襲ぎ修験の行を積み16年。

その後蜂須賀氏入国して居城を渭津に定め、築城整理の為奈月(素月)に立ち退きを命じた。



という資料もあり、奈月、素月、清玄坊

と同一人物かは定かではないのです

けれど、同一人物でいくと父親は

今川家臣とあるので、何かしら母親は

今川家の血を引くものになったのか?と

いうことで、看板にあるように元祖は

清和源氏の血を引くということになっているの

かもしれません。



あと、このお城を調べていると


このお城は天正14年(1586)には完成された

とあります。



秀吉の命により


伊予の 小早川隆景

土佐  長宗我部元親

比叡山の僧侶 (ひえいのふもとの穴太衆)

 などが協力して築造したとあります。



天正10年には京都で本能寺の変があり

織田信長が殺されています。



なんか徳島城の築城を命じたものたちの

メンバーをみるととても不思議な

感じがします。



光秀を滅ぼして秀吉の勢力拡大とみるか、

もともと繋がっていた?

も考えると、信長は秀吉に…