処世術レクチャーみたいなものとして、なんとも筆舌に尽くしがたい状景を目の当たりにした時には、
松島や あゝ松島や 松島や
を、引用しとけ、ってのを身に染ませている気がするのだが。
松島の部分にアルマゲドンを入れてみている今日この頃。
原初のオリンピックが宗教絡みの祭典だったとしても、こんにち、アルマゲドン思想などとは接点を持たずして生活してきた人にとっては、『アルマゲドンでも起こらない限り』の発言の意味がさっぱりわからないことだろう。
過日、「正しい日本語を使う人ならば、ヤング・ケアラーをなんと表現するだろうか」と考えたが、それとわざわざ称し、今後それに対して支援をしていくと国が動くという事は、或る種の差別ではないかと考えが及ぶ為だ。
支援の手は要らないという意味でなく、支援をしなければならないと認めるということは、何についてであれ、差別的だとわたくしは思う。
んで、アルマゲドンだ。日本ではアルマゲドン思想は一般的か。カルトか都市伝説フリークならば、宗教にも差別があってはならないとする憲章を掲げる組織からその語が出ても何の違和感も無いかも知れないが、わたくしには不思議で不思議で仕方がない、アルマゲドン?
汚い癒着の祭典ですよ、その癒着には最終戦争など起こしませんよ、と言っているとしか思えないのだが、殊、日本が感染症によってどーにかなったら、それはそれで面白いのかもなと思う。
レインボーな祭典にアイデンティティを再確認するかのような人々も、もう少ししっかりした方がいいんじゃないかな。それは『枠』ではないの?
余計な御世話だけどね。
過日のサッカーの試合でも、『あなた達は国の回し者だから応援しない』と発言する、日本居住のミャンマーの方に愕然とした。選手の中には、政治的サインを、スポーツマンシップに反してまでも掲げる人が居たのに、国に背いて出場ボイコットでもしようものなら即刻処刑もあり得なくはなさそうな状況なのに、民と民とがしっかりとその立場を甘受している。愕然とした。
わたくしは寝ぼけている。