第1107番 泊瀬川(はつせがわ) 白木綿(しらゆふ)花に 落ち激(たぎ)つ 瀬を鮮(さや)けみと 見に来し我を(よみ人知らず)
少女たちが頭や衣服にあしらう、木綿で拵えた白い花のように、早瀬を目にも鮮やかに落ちる泊瀬川を見に来た私だ。
川の激しい流れに、少女たちが頭や衣服にあしらう、木綿で拵えた白い花を見るというのが、この歌の興趣である。
通常は、ここには川の流れの激しさを表すための形容がされているということになるであろう。
しかし、それは、現代に生きる人の感覚である。
古代の人において、たんにあるイメージを表現するために、形容が施されるわけではなかった。
形容に用いられる言葉自体に、意味が込められていたのである。
むしろ、こちらの方こそ、主題とするべきものがあるであろう。
なにかを感じるとは、自分が見ているものの背後にあるものを認めることなのである。
すなわち、川の早瀬に、少女が頭や衣服にあしらうために白木綿で拵える花を介して、自分に語り掛ける他者の魂を認めているのである。
魂とは、その肉体を離れて、他に働きかけるもののことである。
自分が触れる世界を介して、他者の魂が、自分に働きかけてくるのである。
それは、あなたから、あなたの魂を解き放ち、あなたを、あなた自身であるものへと生かせる。
あなたが、なにかによって感動に包まれるとき、他者の魂によって解き放たれたあなたの魂が、限られた自分を超えて、真に自分であるものを生きるのである。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





