第536番 意宇(おう)の海の 汐干(しほひ)の 潟(かた)の 片思(かたも)ひに 思ひや行かむ 道の長てを(門部王)
意宇の海の汐が引いた後の潟を、ある人への片思いを思い抱きながら、この道をはるかに行くことだ。
自分は満たされないながら、満たされたものを、この道のはるかに感じている。
この道に、満たされないこの自分ではなく、満たされている自分を見ているのである。
満たされない者、それはむしろ、どのようにも満たされ得る者である。
相手を思う努力というものがあるとすれば、十分に満たされている者には、相手を思う努力をあまり必要としないのではなかろうか。
満たされることがないということを知る者が、真の意味で、満たされるための努力を続けることができるのである。
生への貪欲さといっていいものだが、それは、つねに満たされない心の渇きを感ずる者の場合とはまったく異なる。
満たされる努力を続けることに幸せを感ずることができる貪欲さである。
完全には満たされないものであるからこそ、相手を常に変わらず思い続けることができるのだ。
汐が満ちてしまったところには、道はできないということを、あらためて考えよう。
汐が引いているからこそ、道が出来るのである。
汐が引いた後の道は、自分の思う人へと続いている。
しかし、汐が満ちた後は、道は失われるのだ。
自分の一途な思いにとって、汐が満ちていない状態、つまり相手への思いが満たされていない方がいい。
汐が満ちると道がなくなるように、相手への自分の思いがすっかり満たされることは、相手に通じる道がなくなるからである。
では、満たされない方がいいか、というと、そうではない。
努力をすることが大切だということであり、努力をしなくてもよいということではということなのである。
ところで、なんらかの理由で自分が思う人と引き離されること、それは悲しくつらいことである。
しかし、相手から引き離される状況が、かえって相手への思いを強くさせるということがある。
悲劇が好まれるのも、それが書かれているからではないだろうか。
本当につらかったら、悲劇の事柄にあえて触れようとはしないものだ。
人は、逆境の中で思いを強くする人の姿に触れようとするものなのである。
そこに、自分のことが書かれていると思うのだ。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





