第488番 君待つと 我が恋居れば 我が宿の 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く(額田女王)
思う相手を待っている自分の家の簾を、秋の風が動かしている。
自分の家の簾を動かしている秋の風は、自分が待つ恋人の化身したものではなかろうか。
自分の思いが、自分が思う人を、風に変える。
それは、生霊とも考えることができるであろう。
生霊、すなわち、生きているものが肉体を離れて、霊魂となって現れ出たものは、自分の思いの強さがこの世界に形を与えたものなのだ。
だから、自分の思いがなくなれば、必然的に生霊もまた、存在しなくなる。
同じく、死んだ人ならばなおのこと、その人に対する思いがある間、死んだ人は生きているものの間で生き続けるのである。
現実においては存在しないものは、第三者においては確かに存在しないが、ただ自分の中においては存在することができるのである。
生きているものについても、死んだものについても、同じ理屈で存在するわけなのだ。
生きている人が遠くにいても、自分の思いが強くあれば、自分の近くにいることができるのである。
自分の思いの強さとはなにか。
それは、自分と相手とが一どうしであるということである。
自分にとって相手が一なる存在として、自分を一なるものに肯定しているということだ。
自分の思いによってこの世界に現される相手もまた、自分から一なるものに肯定された存在なのである。
一なるものは、他から分かち、他のなにものでもない、固有の存在にしているのであり、それがゆえ、他の存在と比較したりできないのである。
より生きることもしたがって、この一なるものにおいてであり、一なるものを生きる自分が自分であることであり、一なるものになることがまさに、自分であるべきものなのである。
そして、自分のより生きるもの、自分であること、自分であるべきものが、一なる相手をこの世界に創造しているのである。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





