第729番 玉ならば 手にも纏かむを うつそみの 世の人ならば 手にまき難し(大伴坂上大嬢)
自分が玉飾りであったなら、愛しい人の手に纏(まと)われることができるが、この世の人である自分は、その人の手に纏われることはかなわない。
可能ならば、自分が玉飾りになって、自分が思う人の手に纏わられて、いつも一緒にいたいものだ。
自分が思いを寄せる人の手に纏われる玉になること。それは、不可能なことである。
だが、自分の思いの深さ、強さが、現実を超えて、可能なものにする。
現実は、自分が玉飾りになることを拒絶する。
しかし、自分がその気になれば、玉飾りにでもなんにでもなることができる。
現実は、容易く毀(こわ)すことができるのだ。
そして自分が生きようとすることに反する現実は、自分が生きようとすることを挫かせるかに見えるが、むしろ自分が生きようとすることを強めてくれるのである。
現実は乗り越えるべきものという形で自分に働くのだ。
相手への思いの深さ、強さが、自分をこの自分ではないものに生かせる。
そして、自分が思いを寄せる相手が、自分に先んじる存在であることを明らかにする。
自分は、自分に先んじる相手から、この世界に現されているのである。
相手の一性が、自分の一性をこの世界に現しているのである。
相手と自分とが、一対一の関係を結ぶことで。
そして、相手が纏(まと)う玉飾りになることが意味することは、相手にとっての自分になることであり、相手に従うこと、相手からこの場に在らされることであり、限られた自分の生を生きることである。
もっとも、玉飾りにならなくとも、自分は玉飾りと同等のものに成り立たせられているのである。
自分のあまたは、相手ゆえにあり、自分の手、自分の足、自分の胸、自分の頭といった、自分のありとあらゆるものが、相手によっているのである。
そして、相手によって完全なものとなる。
相手の完全が、自分の不完全さを補完するのである。
自分がいまだ不完全な存在であると感じるなら、より相手の玉飾りとなるべく努めるべきなのだ。
相手の玉飾りになることから引き離される自分こそ、自分が克服すべき自分であり、その克服こそ、自分が生きるべき自分、より自分なるものである。
自分とは、相手の玉飾りになることで、自分であるものを生きる存在なのである。
相手によってある自分、それは、他から分かたれた自分であり、他の誰でもない固有の自分である。
相手の玉飾りになることは、相手から存在を肯定されることであり、相手から受け容れられることである。
相手の玉飾りを生きることで、自分を自分たらしめ、自分をこの世界に支え持たせ、自分の中の、相手を思う心が、自分をいつでも本来の自分に息づかせてくれるのである。
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現代の人間は、とかく真実を尊重すぎるだろう。
たしかに歴史の上においても、真実が覆い隠されることで、さまざまな深刻な不都合を招いてきたことは否めない。
しかし、ときに真実ではないことが、現実を隠すこと、ねつ造することで、人々に幸いをもたらしてきたことも事実である。
真実のねつ造がもたらしたものは、不都合なことよりも、好都合なことの方が多いのかもしれない。
人類は、真実をねつ造することを繰り返すことで、困難な現実を乗り越えて、自身の文化を育んできたのである。
むろん、自分が言おうとするところは、真実が歪められることを礼賛するものではない。
真実が歪曲されることで起こる不都合は、きっぱりと正さなくてはならないであろう。
しかし、人類が築き上げてきた多くのものが、現実からねつ造したものであることは間違いなかろう。
民権という思想も、人類が初めから持っていたものではないことは明らかである。
芸術(美)が、現実の中に、不可知なものを創造することから生まれてきたことを考慮しなくてはならない。
また、恋愛が思い込みや幻想から成り立っていることは、あえて言うまでもない。
それでも、そこに真実を求め、信じようとするのだが。
神についていえば、それは、人たちの信仰から成り立っているのである。
信仰が廃れれば、神はいなくなるか、あるいはなにか得体の知れない存在になるであろう。
ここまで、あえて、ねつ造と言う言葉を使ってきたが、創造という言葉に言い換えてもいいかもしれない。
人類に、さまざまなビジョンを与えてきたのも、このねつ造、ないし創造という名のイリュージョン(幻想)にほかならないのだ。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





