これまでのおさらいと、新たに付け加えること~唯識と主なるもの
<これまでのおさらい>
自然と一体であったとき、あなたは自分というものを持っていなかった。
しかし、物を考えることのできる脳を持つようになったあなたは、自然とは異なるものを自身の中に発見したのである。
それは、自分である。
その自分はさらに二つものに分かれた。
すなわち、語りかける主なる自分と、語りかけられるもとからなる自分である。
あなたは、自身の中の主なる自分に導かれるままに、もとからなる自分を生き始めたのである。
しかし、あなたが一体であった自然は、今はあなたにとって脅威となっていた。
自然は容赦なくあなたを傷つけ損なったのである。
あなたがあなた一人で生き抜くには、あまりにも困難さが伴っていた。
すると、あなたの中の主なる自分は、あなたが自然に打ち勝つために、あなたと対等なものを見出させたのである。
あなたは、あなたと対等なものと、互いに生き合うことを通して、自然を克服し、さらなるあなた自身を生きるようになった。
しかし、あなたが生き合う互いに対等なものどうしの絆であるものは、あなたの内なる主を超えて、よりよく生きようとし始める。
これに対して、あなたの中の主なるものは、互いに対等なものどうしを治めるものとなることで、あなたが互いに対等なものどうしを生きることが、主なるものにしたがって生きるようにすり替えることに成功したのである。
それは、最初、互いに対等なものどうしから選ばれた者で、中立公平な存在であった。
しかし、主なるものは、この特別な存在を、自身を選んだものの上を行く存在に変えたのである。
権力の誕生である。
さらに、永遠の権力者として神が現れる。
永遠の権力者である神は、現世において、つかの間、神に代わって、互いに対等なものどうしを治める、人の権力者を承認するものとして、語られることになるであろう。
<主なるものについての考察~唯識論を援用して>
ところで、主なるものとは、あなたから出てきたものであり、あなたから出てきたものだからこそ、あなたを中心で導くことができるのである。
そして、人の長や神であるものとは、あなたを乗り越えるために、あなたの外に出て、あなたを導くものとなったものである。
それゆえに、主なるものは、とてもあなたを反映している存在であると言えるであろう。
それは、とてもあなたの深層心理に深く根ざしている。
この存在について考えるとき、大乗仏教の唯識はなにかとても示唆を与えてくれる。
唯識では、人間の無意識の部分をマナ識とアーラヤ識とに分けている。
アーラヤ識は、あらゆる心の種になるようなものが植えられている場所であり、もっとも最奥の自分であると言える。
対するマナ識は、現実に対して顔を覗かせる潜在意識の部分であり、それはアーラヤ識である最奥の自分に働きかけるとともに現実の意識にも働きかけ、あなたの最奥の自分であるアーラヤ識を作っているとともに、現実のあなたの意識を動かしている、あなたの心の主役ともいうべき存在である。
主なるものについて考えるとき、唯識のマナ識を念頭に置くと分かりやすくなるであろう。
一方、主なる自分から導かれる、もとからなる自分は、あなたの核であり、アーラヤ識を念頭にするとより考えやすくなるかもしれない。
ただし、それがはっきりと意識されるという意味で、主なる自分も、もとからなる自分も、潜在意識というより、顕在意識である。
もとからなる自分のニュアンスは、実存とほぼ重なり、主なる自分のニュアンスは、神や精霊、精神といったものと重なる。
その意味で、唯識による解釈は、限定的なものであるということは、あらかじめお断りしておく。
さて、唯識で、マナ識の持つ根本的煩悩というものをおさえておこう。
それは、次の四つである。
我癡(がち)(無明ともいう)・・・私、他人、物とは分かれて存在しているのではないということを理解していない
我見(がけん)・・・私はこういうもので、私という見方があると思っている
我慢(がまん)・・・ありもしない自分をよりどころにしている
我愛(があい)・・・自分をよりどころにして愛着、執着している
主なる自分について、この四つの根本煩悩を当てはめると、
我癡の援用:自身と対等なものは持たない主なる自分は、なにものからも分かたれた、永遠の孤独の存在である。もとからなる自分は、自分に命ずる永遠の孤独の存在を自分自身の中にも認め、他のものから分かたれた存在であることを感じる。
我見の援用:ただ自分自身だけで存在する主なる自分は、自分以外の見方というものは存在せず、自分の見方だけが正しいとし、もとからなる自分に対して、主なる自分の見方だけを唯一の見方にすることを要請する。
我慢の援用:完全無欠である主なる自分は、自分だけが永遠で絶対である信じ、もとからなるあなたが、ただ主なる自分だけに従うことを求めている。
我愛の援用:主なる自分はどのようなことも許された存在であり、もとからなる自分は、主なる自分が世界を味わうために生きる存在である。主なる自分が喜ぶためにどのようなことをしても厭わない。
※ここで用いられる「我慢」は、今日の一般的な用い方とは異なるので要注意。
さて、このような根本煩悩を持った主なる自分が、もとからなる自分を通して、どのように生き、もとからなる自分は、主なる自分とどう向き合っていくであろうか。そして、この主なる自分に対して、互いに対等なものどうしの絆であるものがどのような反撃をしてゆくことになるであろう。
主なる自分に対抗する、互いに対等なものどうしの絆であるものの背後で、あなたは、もう一つの自分に出会うことになるであろう。
それは、仏教が目指しているものである。
また、イエスをはじめとする「新しきプロメテウスたち」がずっと語りかけているものである。
では、「内的音韻」の後半をひきつづきどうぞ。
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これまで人類が行ってきた、神はいるか、いないかという議論は、とてもナンセンスな議論だったと思い返されます。有神論も無神論もありません。強いて言うなら、自分の外の神を認めるか、内に神を認めるかの違いです。神とは、じつは人間の深部のことであり、神学とは、人間の神性ともいうべきものを問うものだと確信しています。ここから、独自の神学ともいうべきものが展開されます。
「内的音韻の探究」は、さらに人類の深層に入ってゆきます。どうぞ、ご期待ください。
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既刊「プロメテウス 詩篇第2部 哲学への問い」より
虚妄にこそ真実がある(ジョルダーノ・ブルーノの魂)
火刑に処せられたものの断末魔の叫びとともに、その身を焼く匂いがハイエナの姿となって、岩山に繋がれているプロメテウスのからだを舐(な)め回す。
「おお、わたしを超えてわたしを生きる、わたしであるものよ。
貴方は、また、より自分であるものを生きるために、一人の貴方への奉仕者であるものを火焙(あぶ)りにしたのである。
その焼かれた貴方への奉仕者のからだを通して、貴方は、さらに貴方であるものを生きるであろう。
「真実」と言われるものには、このような、「真実」という幻想を通して、貴方への奉仕者を生きようとする、貴方の強欲な意思であるものが纏(まと)わり付いている。
誰かが真実であると言うものを鵜呑(うの)みにしてはならない。
また、自身が見つけ出した真実らしきものをそのまま信じてもならない。
貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものは、貴方をより生きるために、さらに真実らしいものを執拗に貴方にもたらすことであろう。
しかし、むしろ、これは真実ではない、と言われるもののうちにこそ、貴方が生きるべき真実がある。
それは貴方を超えて貴方を生きる、あなたの自分であるものから虚妄として信じ込まされているものである。
それは、互いに対等なものどうしがより生き合う絆である。」
プロメテウスを岩山に縛りつけているのは、主神ゼウスではない。
それは、人の絆であるものを、真実を歪めるものとみなしている貴方の心である。
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<既刊のご案内>
「プロメテウス 詩篇第1部 精霊たちとの対話」

古代ギリシアの人類神プロメテウスの解放の神話に材を採りながら、自分の中の互いに対等なものどうしの絆であるものと、自分を超えて自分を生きる自分であるものを、人類の哲学、宗教の歴史を通して解き明かす、詩篇第1部、詩篇第2部、ノートからなる哲学的文学作品。詩篇第1部は、岩山に繋がれたプロメテウスが、わたしたちの心を形象化したかのような精霊たちとの対話を通して、人間としての「誇り」と、人間を縛っているものについて語りかける。
コーカサスの岩山で。星たちのささやき。夜の雷光。地霊。愛と憎しみの精霊。自分しか愛さないもの。助けるものたち。かりそめの世界を通してかかわる霊たち。人の悲しみを通して生きるもの。控えめな心であるもの。自分しか見えないもの。自分の場所を守ろうとするもの。力づくでなそうとするもの。主なるものの秘密。完全無欠ではないこと、から成る。
「プロメテウス 詩篇第2部 哲学への問い」

古代ギリシアの人類神プロメテウスの解放の神話に材を採りながら、自分の中の互いに対等なものどうしの絆であるものと、自分を超えて自分を生きる自分であるものを、人類の哲学、宗教の歴史を通して解き明かす、詩篇第1部、詩篇第2部、ノートからなる哲学的文学作品。詩篇第2部は、岩山に繋がれたプロメテウスが、ルネサンス以降の哲学の歴史を通して、自由と幸福の問題を問いかける。
自分は間違わないという錯覚(デカルトの魂)。虚妄にこそ真実がある(ジョルダーノ・ブルーノの魂)。あらかじめ損なわれたわたし(ペトラルカの魂)。生きられる世界は、ただ一つではない(スピノザの魂)。貴方という一なる存在(ライプニッツの魂)。貴方の醒めた眼差し(モンテーニュの魂)。この世界には貴方を超えたものしかないということから離れる(バークリの魂)。自分の感覚を信用する(ベーコン、種族のイドラ)。互いのとらわれていることを大事にする(ベーコンの魂、洞窟のイドラ)。相手の言葉を信じる(ベーコンの魂、市場のイドラ)。尊敬の念から誤りも受け容れる(ベーコンの魂、劇場のイドラ)。なにものでもない貴方が、なにかになること(ジョン・ロックの魂)。偶然隣り合うことの真実(ヒュームの魂)。よりよく生き合うためのルール(ホッブズの魂)。自由に先立つものがなければならない(ジャン・ジャック・ルソーの魂)。わたしという落とし穴(カントの魂)。わたしが生きられた証である世界(フィヒテの魂)。世界がわたしの中に組み込まれている(シェリングの魂)。精神の発展に異議をさしはさむ(ヘーゲルの魂)。より大きな愛が、否(いな)まれた自己自身を手当する(ヘルダーリンの魂)。人生は苦しみであるという呪い(ショーペンハウエルの魂)。自分の運命を選びとる自由(キェルケゴールの魂)。自分が作ったものが自分を支配している(フォイエルバッハの魂)。仕組み全体を作り変えなくてはならない(カール・マルクスの魂)。どのようにも生きることができる(ニーチェの魂)。自分自身を括弧にいれる(フッサールの魂)。他者とはわたしが実存する場所である(ガブリエル・マルセルの魂)。危機的状況が世界の創造主にする(ヤスパースの魂)。限りある今を生きる(ハイデガーの魂)。ある人へ宛てた手紙(elegy)。疲れた貴方へ(help me)。わかった気になるな(ウィトゲンシュタインの魂)。思考から解き放つ(ジャック・デリダの魂)、とから成る。
「プロメテウス・ノート」

古代ギリシアの人類神プロメテウスの解放の神話に材を採りながら、自分の中の互いに対等なものどうしの絆であるものと、自分を超えて自分を生きる自分であるものを、人類の哲学、宗教の歴史を通して解き明かす、詩篇第1部、詩篇第2部、ノートからなる哲学的文学作品。ノートは、岩山に繋がれたプロメテウスが、わたしたちを超えてわたしたちを生きる精神であるものについて語りかける。
わたしがある世界。楽園からの追放。わたしを損なっているもの。貴方が創造した世界。貴方から生きられるわたし。わたしとわたしの隣人が作り出す新たな場所。貴方によって捏造されたわたし。貴方による敵の創造。思考が限りあることの認識から本当の思考は立ち上がる~パスカル。唯一のより所という錯覚~デカルト。虚妄にこそ真実がある~ジョルダーノ・ブルーノ。あらかじめ損なわれたわたし~ヒューマニストたち(ペトラルカ)。創造主の中に住まう思想~スピノザ。協同する世界~ライプニッツ。わたしの醒めたまなざし~モンテーニュ。ただわたしを生きるものだけがある~バークリ。ベーコンの四つのイドラについての真反対の解釈。すなわち、自分の感覚を信用する~ベーコン、種族のイドラ。互いの囚われていることを大事にする~ベーコン、洞窟のイドラ。隣人の言葉を信じる~ベーコン、市場のイドラ。尊敬の念から誤りを受け入れる~ベーコン、劇場のイドラ。なにものでもない自分が何かになる~ジョン・ロック。偶然の生を生きる~ヒューム。よりよく生き合うために足かせを持つ~ホッブズ。自由に先立つものがなければならない~ジャン・ジャック・ルソー。ドイツ観念論に対する批判的受容。すなわち、わたしから生きられる世界~カント。わたしが創造される世界~フィヒテ。わたしの中に世界は投影されている~シェリング。歴史の発展に異議をさしはさむ~ヘーゲル。より大きな愛が、自身を否むことの痛みを手当てしてくれている~ヘルダーリン。互いの意思が衝突しあう世界~ショーペンハウエル。実存的なものへの批判的受容。すなわち、自分の運命を選び択る~キェルケゴール。自分たちが作ったものが、自分たちを束縛している~フォイエルバッハ。仕組みを土台ごと変える~カール・マルクス。どのようにも生きることができる~ニーチェ。自分自身を括弧にいれる~フッサール、現象学。他者とはわたしが実存する場所である~ガブリエル・マルセル。危機的状況が世界の創造主にする~ヤスパース。限りある今を生きる~ハイデガー。メルロ・ポンティの身体の現象学を詳細に見てゆく。すなわち、身体を息づいているものが貴方の思考をかたち作っている~メルロ・ポンティ。内に語りかけるものがわたしを導く~メルロ・ポンティ。在る足と作る手~メルロ・ポンティ。満たされる肩と満たせる内腑~メルロ・ポンティ。庇われる背、強固なる皮膚~メルロ・ポンティ。つなぎとめられる肉身、貫き支える骨~メルロ・ポンティ。限られた目、味わう舌~メルロ・ポンティ。また、サルトルのアンガージュマンを詳細に検討してゆく。すなわち、互いに活かされ合っていることを生きる~サルトル。意識的に隣人の声に耳を傾ける~サルトル。互いを創造し合う社会~サルトル。意識的に相手を受け入れる~サルトル。積極的に相手を評価する~サルトル。積極的に支えにゆく~サルトル。積極的に目を開いてゆく~サルトル。役立つ思考~プラグマティズム。語りうることはなにかを明らかにする~ウィトゲンシュタイン。思考からの解放~ジャック・デリラ、から成る。
「プロメテウス 新しきイエス」

わたしたちは、あたらしいイエスを持たなければならない。それは自身と対等なものを持たない完全無欠の神から、互いに対等なものどうしであるわたしたちを解放するとともに、互いに対等なものどうしを生き合うことを説く、数多の宗教を統一し、万人の哲学に止揚する、新しい思想の指導者としてである。
第1部 あなたイエスが現れる前の世界はどのような場所であったか。数多のものの一部であった人類は、あるとき、数多のものから分かたれた。それとともに、数多のものを創造し、在らせる主なる神が現れるのである。神は、あなたの外から来るのではなく、あなたの内から出てくるのである。そして、それは、あなたから分かたれたものの中で、一番最後のものである。それ以前に、他者に対する憎しみは、あなたから分かれたものであった。天国とは、永遠の命への憧憬が作り出したものである。自身と対等なものを持たない主なる神は、自身と対等なものどうしを生き合う絆であるものを創造した。それが、人類神プロメテウスである。しかし、互いに対等なものどうしを結ぶ絆であるプロメテウスの下、互いに対等なものどうしを生き合うものたちは、しだいに主なる神をないがしろにしだしたので、再び主なる神に従わせるために、宗教を創造したのである。
第2部 イエスはなにをやったか。罪の子として生まれたイエスは、自分を罪の子としているものの存在と対決した。それは、互いに対等なものどうしを超えて生きる主なる神である。主なる神は、イエスを自身への崇拝者にしようとするが、イエスはこれをはねつけ、互いに対等なものどうしを生き合うべきであることを宣言する。天国はすでに来ている。それは、この場所のことであり、奇跡とは、互いを縛っている主なる神から解き放たれて、互いがより生き合うことである。自分の心を乗り越え、互いを生き合う。自分を超えて生きるもののために生きてはいけない。誰かを損なうのは、あなたではない。互いに対等なものどうしの心にしたがって生きるのである。その一方、神の孤独を生きることを勧める。神とは、互いを生き合うための知恵である。しかし、イエスに対する過剰な期待がイエスを死へと追い込むことになる。遺されるべき言葉とは、自分の求めに気づくことであり、自分の求めに気づくことで、新しき自分を生きることになるのである。自身を超えて自身を生きるものとの最後の対決。そして、十字架上で、イエスは、自身を超えて自身を生きる主なる神が、互いに対等なものどうしがより生き合われるように、見守ってくれることを祈って、息絶えるのである。
第3部 イエス亡き後、どのようにキリストのからだが受容されたか。マグダレーナとは、隣人のために自身の命を投げ捨てることを厭わない魂のことである。彼女は、師から救われた恩返しのために、隣人のために命を投げ出そうと誓ったのであった。そうして、彼女から救われたものがいた。それは、とても粗暴な男であったが、彼女を通して、純粋な魂の建物を自分の中に築くのである。イエスの教団はペテロの指導の下で、イエスの意図に反して、イエスを主なる神に祭り上げるものに変わってしまった。これに批判を展開したのが、サマリアのメシアと呼ばれた、シモン・マゴスである。その後、教団は、内側にさまざまな異端思想を生じさせることになる。モンタノス主義、モナルキア主義、アリウス主義、アポリナリオス主義、ネストリウス主義であった。そして、結局は、正統派と称するものも異端の疑いを拭い得ず、正しさが正統さではなかったことが暴かれることになるのである。
「プロメテウス 新しきシッダッタ」

プロメテウスシリーズの第5作目。仏教の開祖シッダッタは、自身を捉えているものこそ、自身を超えて自身を生きる、自分であるものであることを苦行の後に発見し、自身を超えて自身を生きるものからではなく、互いに対等なものどうしを生き合うべきであると説く。
第1章 生きることの苦しみに心が震えるのが止まらない貴方は、あるとき人生の無常を愉しむ思想に触れ、瞑想を始め、巷に聞こえる思想について吟味する。個々が生きられていることを重んじる思想、個々の正しさを重んじる思想、個々の自由を重んじる思想、個々の充足を重んじる思想、
個々の平穏を重んじる思想、個々の尊厳を重んじる思想、個々の真実を重んじる思想。それらは言ってみれば、古代の実存主義である。普遍的な真理を認めず、ただ自分の中で生きられているものだけを生きようとする態度である。貴方はこれにとても不満であった。なぜなら、貴方は誰にも通用する永遠の真理を求めたからである。貴方は自ら師を求めるべく、出家する。
第2章 王宮を出奔した貴方は、まずなにものも所有しない思想に触れる。しかし、貴方はなお不足であった。次に、貴方は考えにとらわれない思想と交わる。ここでも、貴方は自分が求めているものに出会えなかった。貴方は、自分自身の力でまだ誰も語っていない真理を見つけ出さなくてはならないと悟ったのである。
第3章 貴方は苦行の森に入る。そこでまず理不尽なことにしたがう行を行い、食を断つ行をし、襤褸(ぼろ)着の行をし、森の深くに入って誰とも交わらぬ行をし、死に至る行を敢行する。しかし、貴方は、命のゆりかごの中で、まだなにも得ていないことを気づかされるのである。
第4章 貴方は、果たしてこの自分は自分が求めているものであろうかと疑念を持つ。そよ風が、貴方が自分を損なっていることを教える。続いて闇の底から、自分を損なっているのは、自分を超えて自分を生きるものであると、語りかけられる。
第5章 貴方に生霊たちが訪れ、自分がどのように損なわれてきたかを語りかけ、貴方はそれらの生霊が自分にかわって語っているのだと悟る。そして、太陽の光から、自身を超えて自身を生きるものから解き放たれて生きることを聞き、隣人から施された乳粥を通して、互いに対等なものどうしを生き合うべきことを理解し、水につかることを通して、貴方は自身を超えて自身を生きるものから解き放たれた、自分自身であるものに生まれ変わるのである。貴方は、自身を超えて自身を生きるものと対決すべく険しい山への登攀を敢行し、自身を超えて自身を生きるものから自分が解き放たれることを宣言する。山を下りた貴方は、とある木の下に座すと、木から、貴方の教えを授けられるのである。
そのあとの貴方を、貴方自身の過去、現在、未来が訪れ、また妻の魂が訪れると、さらに互いに対等なものどうしの絆であるものが、貴方が互いに対等なものどうしのために働くことを語りかける。
また貴方のもとに守旧派たちが集まり、貴方に挑むが、貴方は動じなかった。
第6章 互いに対等なものどうしのためにも、貴方が得たものを伝えなければならないことを聞くと、貴方は伝道の旅に出ることを決意したのである。太陽への讃歌を通して、自分を超えて自分を生きるものが、互いに対等なものどうしを結ぶ絆となることを祈る。
また、互いに対等なものどうしが貴方によらず、互いに対等なものどうしによって生き合われるべきことを語りかける。
貴方の伝道の旅も最後の時を迎えていた。貴方は自分の死が間近いことを知ると、弟子たちにこれからは貴方ではなく、自分自身を師として生きるべきことを語りかけ、この世を去るのであった。
「プロメテウス 邪宗門」

あらゆる宗教はみな正統のものに対する邪教であった。近現代の宗教改革と神秘思想を通して、自分を超えて自分を生きるものと、互いに対等なものどうしの絆であるものを問いかける。
今を生きているこの場所(パスカル、ジャンセニズムにちなんで)、誰とも通じているからだ(セバスティアン・フランクにちなんで)、どこにも繋がるからだ(セリオ・セクンド・クリオーネにちなんで)、現世のからだを拒むからだ(シェーカー教徒にちなんで)、透明なからだ(クェーカー教徒にちなんで)、あらゆるものを取り込むからだ(ユニヴァーサリストにちなんで)、互いから引き離されるからだ(エホバの証人にちなんで)、互いに共有されるからだ(ジョン・ハンフリー・ノイズにちなんで)、新しき言葉を聞くからだ(末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教徒)にちなんで)、世界を救うからだ(キリストの兄弟たち(アデルフィアン)にちなんで)、魂の病(クリスチャン・サイエンスにちなんで)、世界のからだ(エマニュエル・スウェーデンボリにちなんで)、日々の生活から生きられるからだ(メソジスト教会にちなんで)、から成る。
「人間の神学」

中世ヨーロッパ神学に着想を得て、人間の信念について問いかける哲学詩。序章 魂の入れ物である体を通して生きられている 第1章 否むことのできないところから立ちあがる(聖アンセルムス) 第2章 自分に基づくものだけを生きる(アベラルドゥス) 第3章 自分自身から直に生きられる(ルター) 第4章 一にして多である自分(ティエリー) 第5章 自分を育むために他者の存在がある(聖ボナウェントゥラ) 第6章 信じるものが自分を支えている(聖ベルナルドゥス) 第7章 共有できるものを生き合う(トマス・アクィナス) 第8章 具体的なものが、具体的な自分と他者を創る(サン・ヴィクトール学派) 第9章 反対のものからも、また創られる(クザーヌス) 第10章 他の誰でもない、自分であるものを生きる(ウィリアム・オッカム) 第11章 他者から生きられている自分を生きる(エリウゲナ) 第12章 互いは結ばれ合っている(ドゥンス・スコトゥス) 第13章 すでに生きられているものであることに気づく(エックハルト) 第14章 この世界はいかにも美しい(聖フランチェスコ) 終章 人間共通のものを通して、自分を超えた自分であるものと巡り合う
