まだ外が明けきらぬ午前四時頃。魂のカウンセリングの構想が浮かんできて、それからの一時間、それをずっとメモに書き留めていた。
それを文章にまとめるとなると時間がかかるので、とりあえずメモのようなものを書き連ねておきたいと思う。
このカウンセリングについて考える前に書き綴っていた中世ヨーロッパの神学・哲学からインスパイアされて書き綴っていたものがここでおおいに役立っている。
まず、聖アンセルムス的視点。
それは、どんなに否定しようとしても否定することができないものを確認するということである。
どんなに否定しようとしても否定することができないもの、それは互いが生き合う関係であり、自分を超えて自分を生きる自分であるものである。
哲学はこの、どんなに否定しようとしても否定することができない関係に留意する。
つぎに、ベルナルドゥス的視点。
それは、どんな言葉よりも、自分がここに存在し、生きていることの実感を大切にするということである。自分が信じていること、つまり自分の言葉を大事にする。
ただし、これには反面、自分が信じているものを誤る、誤っているものを信じてしまう可能性があることは、用心しておかなくてはならない。
言葉よりも、現に生きられていることを重視することを徹底すると、それはオッカム的視点になる。
言葉の遊戯に踊らされないように注意する。
ただ、ありとある言葉を信じないことで、自分がどう生きているのかが分からなくなってしまう可能性がある。
現に生きてある言葉は、ただ一つのものである。その一つの言葉にしたがって生きると、アベラルドゥス的視点となる。
そのただ一つの言葉は、自分を超えて自分を生きる、自分であるものである。
それは、信念という言葉に表される。
ただ、なにを自分の信じるただ一つの言葉にするかは、大きな賭けである。
さらに、ことばから離れることを徹底すると、マイスター・エックハルト的視点を持つことになる。
それは、自分の言葉からさえ離れるということである。
自分の用いる言葉が、自分が真に自分自身を生きることを妨げていると考えるのである。
ただし、自分の言葉さえ離れることはかなり勇気がいり、人間関係にもリスクを伴うものであることは覚悟しなくてはならない。
これに対して、ことばを大切にする視点がトマス・アクイナス的視点である。
結局、人が互いに理解しあうためには、ことばがなくてはならない。
自分の言葉だけではなく、相手の言葉を通して、相手と理解し合えるようになる。
互いが相手を理解し合える言葉を求めることが大事である。
また相手の言葉によく耳を傾ける、傾聴はとても意義がある。
それぞれ相手の言葉がよく理解できてこそ、よりよく互いが生き合うことができるのである。
ただ、相手の言葉を受容するあまり、自分の言葉をもてなくなってしまう危険性がある。
自分という存在をどう捉えるかということでは、ティエリーの視点が重要である。
それは、多に対して一なる存在ということである。
多であるこの世界は、一なるあなたという存在があってこそ存在しているのである。
互いが一なる存在として貴び合うことが大切である。
それは、どのような関係においても、みな決まったものはなく、それぞれ固有の関係であるということである。
魂のカウンセリングはまさにこの固有の関係で行われる。
人間関係ということをさらに突き進めて行こう。
エリウゲナの視点は、互いが創造しあう自然であるということを示唆している。
これはとても重要である。
人と人との繋がりこそ、互いを創造する世界なのである。
もし、いまの自分がなにかどこか誤ったものがあるなら、正さなくてはならないであろう。
自分のどこか誤ったところができているのも、それを正しすのも、みな人と人との繋がりなのである。
カウンセリングの意義もまた、この人間関係による創造にある。
人間関係による創造をさらに徹底してみてゆくと、そこには人間関係による創造を阻むさまざまな障害がある。
人間関係による創造を阻むものから解き放たれ、真に互いがよりよく生き合われることを考えてゆくと、ルター的視点に行き着く。
互いは直に生き合われるべきである。
しかし、現実はさまざまなものが、人と人とが直に交わることを阻んでいる。
直に互いが生き合われる道を求めてゆくこと。それは、カウンセリングの目的と重なる。
互いがよりよく生き合うことを阻んでいるものをただ否定するのではなく、試練としてむしろ肯定して受け止めるとき、それは、反対の一致を提唱するクザーヌス的視点になる。
その関わりあいが困難であればあるほど、それを克服したあとには、それまでにはなかった、より充実した関係が待っている。
努力を惜しまず、どのような苦境に立たされても諦めないことを、この視点は教えてくれる。
自分が生きている世界に対する視点ということでは、それまで世界を否定的に捉えた中世の世界観を変えた、聖フランチェスコ的視点がある。
世界はあなたがよりよく生きるための場所であり、互いがよりよく生き合われる場所である。
自分が思うように生きられないとしても、世界はあなたがよりよく生きられる場所として、いつでも用意されているのである。
世界は、そこが惜しみなく味わわれる場所であることを教えてくれる。
世界を味わうにも段階があり、その段階に応じて、世界から生きられているとするのは、聖ボナウェントゥラ的視点である。
あなたは常に充実している。いま充実していないと感じるのは、自分の生きられている段階が自分の思い描くものと異なるためである。
つまりあなたは、あなたの生きられている段階において充実しているのであり、それは次の段階に向けてのステップなのである。
段階説ということでは、クザーヌスの否定の一致説と繋がっている。
クザーヌスは人間は、螺旋階段を上るように、成長を続けると説いた。
螺旋階段の現在の位置で、自分の充実度をはかっているのである。この螺旋階段の辿りつく先を意識すれば、現在はほとんど進歩がないように思われる。しかし、これまで上ってきた過程を見下ろすならば、自分が確実に進歩してきたことに気がつくのである。
しかし世界は頭の中で生きるのではない。具体的実際的なものを通して、あなたは自分の五感を通して、また自分の全人格を通して、世界を生きているのである。
具体的実際的に世界を生きることを学ぶとき、それは、自由7学科を重んじたサン・ヴィクトール学派の視点になる。
音楽や弁証法、幾何学、算術、天文学などの学は、それまでの世俗から離れた非俗世界のものではなく、俗世界での学びの大切さを示すことになった。
特別なことはなにも必要はない。自分の身近なことに関心を向け、そこから大いに学びうることを知ることである。
カウンセリングもまた、特別な場所というより、生活の一部として、身近な場所にならなくてはならない。
最後に挙げるものこそ、じつは一番大切な視点である。
そもそもどうして人と人とは互いによりよく生き合われるのであろうか。
それは、愛によってである。
愛の普遍性を説いたドゥンス・スコトゥス的視点は、カウンセリングの動機をなす重要な部分であろう。
普遍的な愛というものは存在しないとするのは唯名論者の言い分であるが、これに挑戦したのがドゥンス・スコトゥスらのいわゆる普遍論者である。
どのような言い方をされようが、じっさいに愛が人格をもって人と人とを結ぶ絆をなしていることは確かである。
愛が普遍的ではない、というのは、普遍的な愛ではなく、一時的な執着であるものと混同しているのかもしれない。
一時的な執着とは、まさに恋愛がその代表である。
恋愛は、いま、ここを大事に生きる姿勢であろう。
いま、ここにおいて、自分にとってかけがえのない存在を大切に思う。
それが恋愛に欠かせない視点である。
しかし、普遍的な愛は、現在に重きを置かない。
現在は過ぎ去ってしまうものだからである。
それよりも、過去、現在、未来へと続く命を大切に思う姿勢である。
そして、そこには、恋愛のような特定の相手というものは存在しない。
同じ一人の人間どうしの視点があるだけである。
同じ人間どうしとして、互いはかけがえのない存在なのである。
互いをかけがえのない大切な存在と思うとき、それは、互いがよりよく生き合われる世界の創造が想定される。
カウンセリングの目的もまた、まさに、互いがよりよく生き合われる世界の創造なのである。
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