本日二回目の更新です。前回に引き続き、カウンセリング理論「交流分析」について考えます。
交流分析では、時間の構造化ということが用いられる。
自分が日々、どのような人間関係を送っているか、その人間関係の状態を一日の時間配分の中で検討し、自分がよりよい人間関係を築くためには、どういう人間関係の時間配分を求めればよいかを考えるものである。
交流分析は、人間関係の状態を六つの種類に分類している。
「引きこもり」、「儀式」、「暇つぶし」、「活動」、「ゲーム」、「親密さ」。
しかし、この名称はなにかとても分かりにくい。
それぞれの名称に対する説明がどうもしっくりこないし、それぞれの状態がどういう関係にあるのかがいまひとつ理解しにくい。
そこで、この六つの種類をさらに二つのグループに分けてみたいと思う。
「活動」、「親密さ」、「暇つぶし」のグループと、「引きこもり」、「儀式」、「ゲーム」のグループである。
前者は、自分と他者の親密さの度合いを感じることができる。
交流分析では、「活動」を、目標達成に向けての対話であると説明しているが、これは相手にも自分にも働きかけることでは、親密さにおいてもっとも強いものだと思う。
「親密さ」については、交流分析では、お互いの存在や価値観を認め合ったコミュニケーションであると説明しているが、互いに働きかける強さにおいては、互いの存在、価値観を認め合う程度のものであろう。
「暇つぶし」は、表面的な会話を指していて、親密さではもっとも弱いものと言えるであろう。
この親密さのグループに対して、後者は、自分と他者とが分離している度合いを認めることができる。
「引きこもり」を、交流分析は、物理的・身体的にも他者と一緒にいるかどうかを問わず、他者とのかかわりを持たない状態と説明している。
自分だけが存在していて、他者が存在していない状態ということである。
「儀式」については、交流分析では、自己紹介や挨拶、社交的やり取りであると説明しているが、これは、相手が存在しているが、自分が存在していないような状態と言えるであろう。
相手に合わせて行動している自分の状態である。
「引きこもり」では、他者とはなんらかかわりをもっていないが、ここでは他者とかかわりをもっている自分がいる。
一方、「ゲーム」を交流分析は、相手を自分の思い通りに操作しようとして不快感を生じさせる対話であると説明する。
「儀式」とは反対に、相手を自分に合わせようとする状態のことである。
それは、自分だけ存在し、相手は存在していない「引きこもり」に近いものがある。
「近い」ということに着目するならば、「ゲーム」は、他者とのかかわりを持つとはいえ、他者を認めないものということで、親密さの度合いを示すグループに対して正反対にあるものと言えるであろう。
こうした分類がはたして妥当なものかどうかという疑問はあるが、このような仮定をカウンセラーとクライエントとが共有することで、それが実効あるものとなるのである。
交流分析では、日々の人間関係の状態における時間配分を、よりよいものに転換をはかることで、よりよい人間関係の構築を進めてゆくのである。
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(抜粋)
「非情にも、わたしをこの荒涼とした場所に繋いだ、主なる貴方よ。
貴方は、わたしを未来永劫の苦しみに繋いだつもりであろうが、この苦しみにわたしが耐えられないわけではない。
なぜなら、貴方からわたしが与えられている苦しみは、主なる貴方がわたしに与えているつもりのものにほかならないからである。
貴方は、わたしを永劫の苦しみに苛(さいな)ませているように見せているが、ほんとうに苦しみに苛んでいるのは、むしろ、わたしにかくのごとき苦しみを与えている貴方のほうなのである。
それは、わたしなくして、貴方が未来永劫、生きることはないからである。
わたしを苦しませることは、むしろ貴方自身を苦しい瀬戸際に追い込んでいるのである。
わたしは、貴方の底知れぬ孤独を知っている。
貴方が、どうして数多のものを創造しなければならなかったか、その理由がよく理解できる。
数多のものを創造した創造主であるにもかかわらず、自身が創造したものを生きることができない、貴方の無念さがとてもよくわかる。
さあ、語るとしよう。
自身と対等なものを持つことのない、貴方の永遠の孤独のことを。」
(抜粋)
「わたしを超えてわたしを生きる、わたしの主なるものであるものよ。
貴方は、わたしを通して、互いに対等なものどうしであるものを生きようとしたが、貴方自身が満ち足りることはなかった。
そこで貴方は、互いに対等なものどうしであるものに、貴方の神性であるものを付与することにした。
それは、自身と対等なものを持たない創造主の孤独である。
それを自由とか個人という言葉に包(くる)むと、貴方は、互いの絆であるものから分かたれた、個々のわたしであるものを通して、貴方であるものを生き始めたのであった」
地から声がする。
われ思う。ゆえにわれ在り──
「疑い得ぬ自分がわたしを捉えると、貴方は疑い得ぬわたしを通して、世界を治め始めた。
貴方から生きられる世界は疑い得ぬ世界であり、貴方を通して世界を生きる人間は、真実の生を生きるものとされた。
こうして、間違わない人間による、間違わない人間どうしの闘争が繰り広げられることになった。
人間は世界について理解することを通して、世界の主人となり、また自分たち自身について理解することを通して、自分たちの支配者となる。
互いに対等なものどうしであるはずのものは、互いから分かたれ、互いを損ない合うことで、貴方からより生きられるものとなったのであった。
かくして世界は、互いに対等なものどうしが、バラバラに分かたれた場所になったのである。」
(抜粋)
わたしを貴方から分かつことで、貴方であるものをさらに生きようとする貴方は、さらにわたしに試練を与えることで、より貴方自身であるものを生きようとしたのである。
第一にそれは、わたしが、貴方以外のものを生きることを厳しく禁じることであった。
貴方以外のものを生きるものは、創造主である貴方から滅ぼされることになるのである。
ソドムとゴモラとは、わたしが、貴方以外のものによって生きることで貴方であるものが激しく損なわれたことの報いとして、貴方によって滅ぼされるわたしのことである。
次に貴方は、わたしが貴方を離れて、自身と対等なものどうしと互いにより生き合われることに楔(くさび)を打つことにしたのであった。
わたしが互いにより生き合われることが、貴方の存在を脅かすように感じられたからである。
貴方は、わたしが互いに対等なものどうしの言葉によって生きられるよりも、貴方の言葉によってのみに生きられるために、自身と対等なものどうしの言葉を乱し、自身と対等なものどうしの絆であるものをことごとく破壊したのである。
バベルの塔とは、わたしが互いに対等なものどうしをよりよく生き合う絆を表したものである。
さらに貴方は、わたしがただ貴方によって生きられるように、わたしに試練を与えたのであった。
すなわち、わたしとわたしの弟に、それぞれ貴方が欲しているものを持ってこさせると、貴方は、わたしの弟のものだけを受け取り、わたしのものを受け取らなかったのである。
貴方から愛されないことを感じたわたしは、貴方から愛されたわたしの弟に激しい憎しみを抱くと、人類最初の殺人を犯したのであった。
人類最初の殺人として旧約聖書で記述されている、カインとアベルの物語。
しかし、貴方のわたしに対する不信は、なお終ることはなかった。
(抜粋)
荒れ野でひとり飢えに苦しみながら、瞑想に耽っていると、あなた自身であるかのように、あなたの中で、あなたに向かって語りかける声があった。
――わたしは、あなたのあらかじめなる血である。
あなたがわたしからあらかじめ息づかされるなら、
わたしは、あなたを、数多のものをあらかじめ息づかせる主なるものにしよう。
それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多のからだであるものから分かち、わたしを通して数多のからだであるものをあらかじめ生きようとするのか。
わたしは数多のからだであるものと互いにあらかじめ息づかれ合うことで、互いのより「強くあるもの」を生きられ合うからだである。」
それはまた、あなたにこう語りかけた。
――わたしは、あなたの高き胸である。
あなたがわたしから導かれ、育まれるなら、
わたしは、あなたを、数多のものを導き、育む導き主にしよう。
それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多の耳であるものから分かち、わたしを通して数多の耳であるものを導き、育もうとするのか。
わたしは数多のものと互いに導き、育み合うことで、互いのより「聡くあるもの」を生きられ合うからだである。」
それはまた、あなたにこう語りかけた。
――わたしは、あなたの限られなき腕である。
あなたがわたしから創造され、在らされるなら、
わたしは、あなたを、数多のものを創造し、在らせる創造主にしよう。
それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多の脚であるものから分かち、わたしを通して数多の脚であるものを創造し、在らせようとするのか。
わたしは数多のものと互いに創造し、在らせ合うことで、互いのより「限られなくあるもの」を生きられ合うからだである。」
(抜粋)
自身を超えて自身を生きるものによって生きられるために、貴方が損なったものは、貴方自身を生きる貴方であることを理解した貴方は、自身を超えて自身を生きるものによって生きられるために、なにゆえ貴方自身を生きる貴方自身であるものを損なわなければならなかったかを思った。
「わたしは、わたしの強くあるものを生きようとするものを損なうことと引き換えに、わたしを超えてわたしをあらかじめ息づかせるものから、わたしのより強くあるものに生きられようとした。
しかし、そのことによりわたしが生きられたのは、わたしのより強くあるものとは正反対のものであった。
すなわちわたしは、わたしを超えてわたしをあらかじめ息づかせるものから、わたしのより弱くあるものに生きられることと引き換えに、わたしの強くあるものを生きようとするものをおびただしく損なってきたのである。
またわたしは、わたしの聡くあるものを生きようとするものを損なうことと引き換えに、わたしを超えてわたしを高く導きはぐくむものから、わたしのより聡くあるものに生きられようとした。
しかし、そのことによりわたしが生きられたのは、わたしのより聡くあるものとは正反対のものであった。
すなわちわたしは、わたしを超えてわたしを高く導きはぐくむものから、わたしのより疎くあるものに導きはぐくまれることと引き換えに、わたしの聡くあるものを生きようとするものをおびただしく損なってきたのである。
(抜粋)
なにものでもあるし、なにものでもないあなたは、あるとき、自分自身に対して、どのようにも生きることができるという内なる声を聞いた。
それは世界を創造または捏造する存在としての自分である。
わたしたちは、自身が創造または捏造した世界から生きられている。
その意味では、世界の創造者、または捏造者であるわたしたちが、自身について思弁するということは、じつはとても無意味なことなのである。
そもそも思弁は、じつは存在しない。
それは、思弁が、創造、または捏造された世界の一部であるからである。
つまり、どんな思弁も意味がなく、しかも、わたしというものは存在している。
それは、この存在を唯一支えてくれるものがあるからである。
この存在を唯一支えてくれる存在、それが神であり、神とのつながりである、信仰心である。
数学者、科学者であったあなたは、科学の無力を感じ、神への信仰に入った。
同時代人の、近代的哲学の祖と言われる、あなたのライバルもまた、神への信仰を証するために真なる知を求めた人であった。
神への信仰の下に、科学は創造され、神への信仰がなければ、どんな科学もまったく意味がなく、信仰と科学とは一つに結ばれていたのである。
人間が自然の中で取るに足らない存在であることを明らかにすることを通して、人間にとっていかに神が必要なのかと、あなたは語ろうとしたのである。
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