信念であるものの正体 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 あなたの信念、信条、信仰であるもの。それはなんであろうか。




 そもそもあなたは、信念、信条、信仰であるものがなくても生きていける。




 けれど、あなたを取り巻く自他のフィールドが、あなたに信念、信条、信仰であるものを要求するようになった。




 すなわち、他者とのかかわりにおける、他者と対等な自分自身であるものとしての信念、信条、信仰であるものと、自己自身に対して超越的である信念、信条、信仰であるものである。




 自他それぞれのフィールドを通して、あなたに信念、信条、信仰であるものを与える存在。それが、わたしが考える超宗教的アプローチのテーマである。




 あなたに信念、信条、信仰であるものを与える存在をどのように考えるかによって、あなたの信念、信条、信仰であるものが理解される。




 それを中世ヨーロッパの神学・哲学からインスパイアされたものに即して述べるならば、以下のようなものになるであろう。




 信じているものから生きられる(ベルナルドゥス的視点)。第一にあなたが信じていることがなくてはならない。あなたが信念、信条、信仰として持っているものは、あなたが信じているというまさにそのことである。つまり、はじめから答えが出ている。すでに信じているという前提である。そこでは、どうして信じたかということはまったく問われない。



 そこで問いをあえて持つとき、あなたが信じるのは、それが否むことができないものだからである、という視点である(アンセルムス的視点)。否むことができないものだからこそ、信じなくてはならない、ということである。



 また、それは疑いえぬ唯一のものだから、という視点である(アベラルドゥス的視点)。あなたの感性は大方間違っている。あなたがあると感じるものはみな存在しないものである。ただ一つ、疑いえぬものがある。それのみがあなたが無条件で信じるべき存在である、ということである。



 また、この世界があるということ、あなたがあるということは、そこには万物を、またあなたを創造した存在がある、ということであり、それはあなたが受け入れるべき事柄であるという視点である(エリウゲナ的視点)。あなたがどのように感じようと、あなたが存在していること、世界が存在していることをあなたは受け入れなくてはならないのである。



 また、あなたは、自分の理解を超えるものについて理解することはできない。ただ、あなたの生を通してあらわれているもののみ、あなたは、あなたを生きるものの存在を生きることができるという視点(オッカム的視点)。それは、人生をなにかに決め付けず、あるがままに生きる態度である。



 また、仲介者を通してではなく、あなたがじかに生きるもの、じかに生きられているものを重んじる態度(ルター的視点)がある。自分自身の感性にとても重きを置いた考え方である。



 同じく、一なるものということに着目して、あなたが一なるものに生きられ、一に生きているものについて考える視点(ティエリー的視点)がある。とても個というものに重きを置いたものと言え、実存主義的なものを認めることができる。



 さらに、あなたがどのように生きられているかということに着目して、あなたが生きられている世界を積極的に肯定する視点(聖フランチェスコ的視点)があり、それが段階的に生きられたものであるという視点(聖ボナウェントゥラ的視点)、反対のものを通して生きられるという視点(クザーヌス的視点)、あなたが生きる言葉を通して生きられるという視点(アクィナス的視点)、自分自身を離れることで生きられるという視点(エックハルト的視点)を見てきた。



 また、具体的実際的なものに着目して、弁証法、音楽、幾何学、算術、天文学、修辞学、文法を学ぶことから、自分の信念、信条、信仰であるものを具体的実際的に獲得することができるとする視点(サン・ヴィクトール学派的視点)があった。それは、具体的実際的な事柄を重んじる、現代の実用主義に通じるものである。



 そして、最後に、あなたが生きられることの意味を、普遍的な愛という形で表現した視点(ドゥンス・スコトゥス的視点)。愛はどのようなものの心においても感じ取ることができるものであり、すべての人は愛を通して、自分の信念、信条、信仰であるものを獲得することができるとするのである。




 あなたに信念、信条、信仰であるものを与えているものはなにか。



 それを解き明かしてゆくことで、あなたがさらに自分自身であるものをよりよく生き、一方で、あなたが誤った信念、信条、信仰に囚われないことを考えていけたらと願っている。



 そもそも、この考察を始めたきっかけには、いかに正義の名による不正義をこの世界からなくしてゆくかというテーマがあることを、最後に一言添えておこう。









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 既刊作品



同胞たる、おっとりとした頬を求めて!



 「プロメテウス 詩篇第1部 精霊たちとの対話」


(抜粋)

「非情にも、わたしをこの荒涼とした場所に繋いだ、主なる貴方よ。
 
 貴方は、わたしを未来永劫の苦しみに繋いだつもりであろうが、この苦しみにわたしが耐えられないわけではない。

 なぜなら、貴方からわたしが与えられている苦しみは、主なる貴方がわたしに与えているつもりのものにほかならないからである。

 貴方は、わたしを永劫の苦しみに苛(さいな)ませているように見せているが、ほんとうに苦しみに苛んでいるのは、むしろ、わたしにかくのごとき苦しみを与えている貴方のほうなのである。

 それは、わたしなくして、貴方が未来永劫、生きることはないからである。

 わたしを苦しませることは、むしろ貴方自身を苦しい瀬戸際に追い込んでいるのである。

 わたしは、貴方の底知れぬ孤独を知っている。

 貴方が、どうして数多のものを創造しなければならなかったか、その理由がよく理解できる。

 数多のものを創造した創造主であるにもかかわらず、自身が創造したものを生きることができない、貴方の無念さがとてもよくわかる。

 さあ、語るとしよう。

 自身と対等なものを持つことのない、貴方の永遠の孤独のことを。」


 

 「プロメテウス 詩篇第2部 哲学への問い」



(抜粋)


「わたしを超えてわたしを生きる、わたしの主なるものであるものよ。

 貴方は、わたしを通して、互いに対等なものどうしであるものを生きようとしたが、貴方自身が満ち足りることはなかった。

 そこで貴方は、互いに対等なものどうしであるものに、貴方の神性であるものを付与することにした。

 それは、自身と対等なものを持たない創造主の孤独である。

 それを自由とか個人という言葉に包(くる)むと、貴方は、互いの絆であるものから分かたれた、個々のわたしであるものを通して、貴方であるものを生き始めたのであった」

 地から声がする。

  われ思う。ゆえにわれ在り──


「疑い得ぬ自分がわたしを捉えると、貴方は疑い得ぬわたしを通して、世界を治め始めた。

 貴方から生きられる世界は疑い得ぬ世界であり、貴方を通して世界を生きる人間は、真実の生を生きるものとされた。

 こうして、間違わない人間による、間違わない人間どうしの闘争が繰り広げられることになった。

 人間は世界について理解することを通して、世界の主人となり、また自分たち自身について理解することを通して、自分たちの支配者となる。

 互いに対等なものどうしであるはずのものは、互いから分かたれ、互いを損ない合うことで、貴方からより生きられるものとなったのであった。

 かくして世界は、互いに対等なものどうしが、バラバラに分かたれた場所になったのである。」




 「プロメテウス ノート」

(抜粋)

 わたしを貴方から分かつことで、貴方であるものをさらに生きようとする貴方は、さらにわたしに試練を与えることで、より貴方自身であるものを生きようとしたのである。

 第一にそれは、わたしが、貴方以外のものを生きることを厳しく禁じることであった。
 貴方以外のものを生きるものは、創造主である貴方から滅ぼされることになるのである。
 ソドムとゴモラとは、わたしが、貴方以外のものによって生きることで貴方であるものが激しく損なわれたことの報いとして、貴方によって滅ぼされるわたしのことである。
 
 次に貴方は、わたしが貴方を離れて、自身と対等なものどうしと互いにより生き合われることに楔(くさび)を打つことにしたのであった。
 わたしが互いにより生き合われることが、貴方の存在を脅かすように感じられたからである。

 貴方は、わたしが互いに対等なものどうしの言葉によって生きられるよりも、貴方の言葉によってのみに生きられるために、自身と対等なものどうしの言葉を乱し、自身と対等なものどうしの絆であるものをことごとく破壊したのである。
 バベルの塔とは、わたしが互いに対等なものどうしをよりよく生き合う絆を表したものである。

 さらに貴方は、わたしがただ貴方によって生きられるように、わたしに試練を与えたのであった。

 すなわち、わたしとわたしの弟に、それぞれ貴方が欲しているものを持ってこさせると、貴方は、わたしの弟のものだけを受け取り、わたしのものを受け取らなかったのである。

 貴方から愛されないことを感じたわたしは、貴方から愛されたわたしの弟に激しい憎しみを抱くと、人類最初の殺人を犯したのであった。
 人類最初の殺人として旧約聖書で記述されている、カインとアベルの物語。

 しかし、貴方のわたしに対する不信は、なお終ることはなかった。



 「プロメテウス 新しきイエス」


(抜粋)


 荒れ野でひとり飢えに苦しみながら、瞑想に耽っていると、あなた自身であるかのように、あなたの中で、あなたに向かって語りかける声があった。

 ――わたしは、あなたのあらかじめなる血である。
   あなたがわたしからあらかじめ息づかされるなら、
   わたしは、あなたを、数多のものをあらかじめ息づかせる主なるものにしよう。

 それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多のからだであるものから分かち、わたしを通して数多のからだであるものをあらかじめ生きようとするのか。
 わたしは数多のからだであるものと互いにあらかじめ息づかれ合うことで、互いのより「強くあるもの」を生きられ合うからだである。」

 それはまた、あなたにこう語りかけた。

 ――わたしは、あなたの高き胸である。
   あなたがわたしから導かれ、育まれるなら、
   わたしは、あなたを、数多のものを導き、育む導き主にしよう。

 それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多の耳であるものから分かち、わたしを通して数多の耳であるものを導き、育もうとするのか。
 わたしは数多のものと互いに導き、育み合うことで、互いのより「聡くあるもの」を生きられ合うからだである。」

 それはまた、あなたにこう語りかけた。

 ――わたしは、あなたの限られなき腕である。
   あなたがわたしから創造され、在らされるなら、
   わたしは、あなたを、数多のものを創造し、在らせる創造主にしよう。

 それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多の脚であるものから分かち、わたしを通して数多の脚であるものを創造し、在らせようとするのか。
 わたしは数多のものと互いに創造し、在らせ合うことで、互いのより「限られなくあるもの」を生きられ合うからだである。」





 「プロメテウス 新しきシッダッタ」


(抜粋)

 自身を超えて自身を生きるものによって生きられるために、貴方が損なったものは、貴方自身を生きる貴方であることを理解した貴方は、自身を超えて自身を生きるものによって生きられるために、なにゆえ貴方自身を生きる貴方自身であるものを損なわなければならなかったかを思った。


「わたしは、わたしの強くあるものを生きようとするものを損なうことと引き換えに、わたしを超えてわたしをあらかじめ息づかせるものから、わたしのより強くあるものに生きられようとした。

 しかし、そのことによりわたしが生きられたのは、わたしのより強くあるものとは正反対のものであった。

 すなわちわたしは、わたしを超えてわたしをあらかじめ息づかせるものから、わたしのより弱くあるものに生きられることと引き換えに、わたしの強くあるものを生きようとするものをおびただしく損なってきたのである。


 またわたしは、わたしの聡くあるものを生きようとするものを損なうことと引き換えに、わたしを超えてわたしを高く導きはぐくむものから、わたしのより聡くあるものに生きられようとした。

 しかし、そのことによりわたしが生きられたのは、わたしのより聡くあるものとは正反対のものであった。

 すなわちわたしは、わたしを超えてわたしを高く導きはぐくむものから、わたしのより疎くあるものに導きはぐくまれることと引き換えに、わたしの聡くあるものを生きようとするものをおびただしく損なってきたのである。



 「プロメテウス 邪宗門」


(抜粋) 


 なにものでもあるし、なにものでもないあなたは、あるとき、自分自身に対して、どのようにも生きることができるという内なる声を聞いた。

 それは世界を創造または捏造する存在としての自分である。

 わたしたちは、自身が創造または捏造した世界から生きられている。
 その意味では、世界の創造者、または捏造者であるわたしたちが、自身について思弁するということは、じつはとても無意味なことなのである。

 そもそも思弁は、じつは存在しない。
 それは、思弁が、創造、または捏造された世界の一部であるからである。
 つまり、どんな思弁も意味がなく、しかも、わたしというものは存在している。

 それは、この存在を唯一支えてくれるものがあるからである。
 この存在を唯一支えてくれる存在、それが神であり、神とのつながりである、信仰心である。

 数学者、科学者であったあなたは、科学の無力を感じ、神への信仰に入った。

 同時代人の、近代的哲学の祖と言われる、あなたのライバルもまた、神への信仰を証するために真なる知を求めた人であった。

 神への信仰の下に、科学は創造され、神への信仰がなければ、どんな科学もまったく意味がなく、信仰と科学とは一つに結ばれていたのである。

 人間が自然の中で取るに足らない存在であることを明らかにすることを通して、人間にとっていかに神が必要なのかと、あなたは語ろうとしたのである。


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