駄目な自分を受け入れる | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 あなたは、自分で知らないうちに、自分自身や他人を傷つけたことはないであろうか。




 後で思い返すと、胸が苦しくなる。なんでそうしてしまったのだろうと、とても悔いて仕方ない。




 自分ではまったくそんなことをするつもりはなかった。また、そういう意図ではなかった。自分の理解が足りなかった。自分の思慮のなさが、結果的に自分や人を損なってしまった。




 私にはそういう経験がいくつかある。過ぎ去ってしまったこととはいえ、いまだに自分の心をさいなむことがある。




 どうしてあのようなことをしたのであろう、と。




 多分、あのときは、それが精一杯のことだったのだと思うが、思い返せば思い返すほど、自分のことが赤面せざるを得なくなる。




 人間として出来ていない。出来損ない。その当時を振り返ると、そう思う。




 だからといって、今の自分がその当時の自分と比べて人間として立派になったかというと、まったくそんなことはない。




 ただ、自分自身を冷静に振り返ることができる、ということだけは言える。




 それでもって、恥ずかしい過去が、自分の中で消え去るものではないが。




 決して消え去ることのない、その忘れようとしても忘れることができない後悔の念が、今の自分を作りあげている。





 自分を許すというわけではないが、駄目な自分を受け止めることで、自分は少しだけマシになる。




 それは、中世の神学者ニコラス・クザーヌスが私に教えてくれたことである。




 駄目な自分を見ないようにしている間は、駄目な自分から脱け出ることはできない。




 駄目な自分を受け入れることができてこそ、駄目な自分を乗り越えることができるのである。




 
 駄目な自分をあるがままに受け入れよう。




 駄目な自分を温かい目で見守る自分は、駄目な子ほど可愛く思う親である。




 自分に対する愛とは、そんな用いられ方をするべきだろう。




 駄目な自分でいい。




 駄目な自分は、駄目ではないのである。