互いが信じあうことができる社会を求めて | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 一週間ぶりの更新です。




 これまで書いてきた中世の神学を元にした思索をまとめているところですが、さらに二つのことにチャレンジを始めました。




 これについては、いずれここでご報告できたらと思っています。




 これまでしてきたことの延長上のことだと思ってください。




 さて、キリスト教ばかりを扱うことが多いわけですが、さいきん、自分がしていることで、実際のイエスがどうだったかということを考えてみるようになりました。




 たぶん、というか、おそらく、彼は嫌われ者だったのです。




 もちろん、彼の本質を知って彼についていった人たちは多いのですが、その一方、彼をうとましく感じていた方がもっと多かったことでしょう。




 彼は、どうやったら、自分を嫌う人たちにかかわり、理解を得られるかを考えたことだと思います。




 なんのことはない。まさに、この事実を事実として受け止めることです。





 自分は嫌われている。このことを把握した上で、行動すればよいのです。




 はじめから、嫌われたくないと思っていたら、なんのかかわりを持つこともできません。




 相手は、自分をはじめから嫌っている。また、そういう相手とかかわることが必然なのです。




 もとから共感してもらえてくれている人はごく僅かなのだと承知すべきでしょう。




 いや、じっさい、もとから共感してくれているのは皆無。




 みな、少しずつ共感をしてもらっていったのです。そして、仲間になってくれた。手伝ってくれるようになった。





 イエスは、そのようにやってきた。自分を嫌っている人たちとかかわること。それがすべて。




 だから、どんなに冷たくあしらわれようとも一向にかまわない。




 門前払いは当たり前で、ものをぶつけられたりすることは日常茶飯事。





 でも、これは、現代にも同じことが存在する。




 そっくり同じことはこのわが国でも確かに存在する。





 あなたは、自分に福音を伝えようとする人が突然訪れて、受け入れることができるでしょうか。




 21世紀の現代のわが国は、もうかつてのようなお人よしが集まった国ではなくなりました。




 人間不信の状況がわたしたちの周りを取り巻いています。




 自分のところにやってくる知らない人間は、下手をすれば不審者扱いにされます。




 「関係者以外の立ち入りを禁じる。もし発見されれば警察に通報します」という文字をあなたは見たことがありますか。




 気がつけばあちこちに監視カメラが置かれ、近づいてくる人を録画監視しています。




 あなたは、自分が映し出されているカメラ画像があることに悲しくはなりませんか。




 気がつけば、この国は、かつての共産圏のように、相互監視の社会になっているのです。




 これが果たして自由な民主的な、個人が大事にされる国の姿なのでしょうか。




 確かに変な人間はいるでしょう。しかし、そのまったくごく一部の人間のために、自分たちのよさが著しく損なわれていることを大いに憂えてなりません。




 イエスもまた、そういうものと闘ったのです。




 互いを信じることができない社会。そこで、互いが信じあうことができる社会を取り戻そうとしたのが、彼の行動なのです。




 あなたは、正義を取り違えてはいないでしょうか。




 正義とは、他人から個人の権利を守るためのものではなく、互いがよりよく生き合われる世界を構築することなのではないでしょうか。




 狭い自分たちの世界を守るために、いっさい外部のものが入ってこないようにしようとする、正義気取りの人たちを信用してはなりません。


 


 そういう人は、あちこちにいます。わたしもそういう人とかかわったことがあります。