自分自身の言葉を通して味わわれている(トマス・アクィナス) | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 「自分自身の言葉を通して味わわれている」。




 あなたは、あなたを生きるものから、あなた自身の言葉を通して味わわれている。




 あなたがどのように生きているか、それがあなた自身の言葉である。




 つまり、あなたの生き様こそが、あなた自身の言葉であり、あなたを生きるものもまた、あなたの生き様を通して、あなたを味わっているのである。




 

 ところで、わたしたちは、共感ということによって物事を理解したり、感銘を感じたりする。




 共感とは、共通の言葉を持つということである。




 自分しかない言葉というものは存在しない。かならず、なにかしら共通の言葉をわたしたちは持っているのである。




 たとえば人間という共通項は、人間ならではの共通の言葉を見出させる。




 わたしたちは、互いに人間という共通項を通して、理解したり、感銘したりすることができるのである。




 しかし、世の中には、共通項よりも自分独自のものに重きを置く人も少なからずいるであろう。




 その人にとって、どんなに共通の部分を言われても、少しも愉しくない。自分独自のものが尊重されなければならないのである。




 だからこそ、人から理解されたり、感銘されたりすると、とても嬉しくなる。




 自分独自のものが正当に評価してもらえたように思う。




 もっとも、自分独自のものと思い込んでいるだけで、本質においては人間ならではのものなのである。




 つまり、自分独自のものであることにこだわるのが人間ということである。




 別の言い方をするなら、自由ということである。




 自由は、個々独自にありながら、人間共通のテーマである。




 自分を持つことが自由の本質的根源である。




 このことに焦点を当てるなら、すべての人間は互いに理解しあえ、また感銘しあうことができるであろう。




 わたしもまた、あなたを、あなたの言葉、すなわち、あなたの自由の事柄を通して、あなたを理解し、また感銘するであろう。




 それは、互いに違っていて当たり前であり、互いに違うということが、私たちが共有できる言語ということである。




 そして、相手独自のものに深く入ってゆく。




 これはまた、裏返せば、自分独自のものに相手が入ってゆくことを許すということでもある。



 

 わたしとあなたとは、互いに違っていることを味わい合うとともに、互いに違うものを持った人間であることを味わい合っている。




 これらは、互いに対等なものどうしの味わい方ということであろう。







 一方、あなたを超えてあなたを生きるものにおいては、ただあなたを超えてあなた自身であることに焦点がある。




 それは、あなた自身でありながら、あなた自身を離れる言葉である。




 あなたの言葉が、あなた自身を超えてゆけばゆくほど、あなたを超えてあなたを生きるものは、あなたを隈なく味わう。




 この地上を超えた世界は、あなたが、あなた自身を超えて生きるために、あなたを超えてあなたを生きるものから与えられた言葉である。




 あなたは無論、あなたに与えられた言葉によって生きることもできるし、与えられた言葉をあなた独自のものにアレンジを加えて生きることもできる。




 そのまま受け入れても、またアレンジを加えても、あなたによって生きられることを通して、それは、あなたが、あなたを超えてあなたを生きる言葉になるであろう。




 そして、あなたを生きるものは、あなたを超えてあなたを生きるあなた自身の言葉を通して、あなたを味わうのである。







 ところで味わうとはどういうことであろう。




 それは、よい、と思うことである。吟味して「よし」、とすることである。




 その生を幸いに感じ、受け入れること。




 つまり、味わうあなたは、その生をあなた自身のものとして肯定し、味わわれるあなたは、あなたの生を肯定されているということである。




 人生を愉しむことができるということは、自分の人生を味わっているということであり、また、自分の人生を肯定できるということは、自分を生きるものから滋味深く自分の人生を味わわれているということなのである。




 他方、味わうことができない、ということもあるであろう。




 それは、自分の人生に対する否定や拒否が背後にある。



 自分の人生を否定したり、拒否したりしていると、人生は味気ないものになる。



 さらにそれが過度になれば、自分を生きるものから、自分が否定、拒否されている感覚になってゆく。



 しかし、それは、あなたがあまりに自分のことだけに囚われすぎて、あなたの隣人、ひいては人間の本質に目を向けていないからである。




 人生は否定したり拒否するものではなく、個々独自のものがあるのと同時に共有するものとがあり、その本質はただ肯定と受容である。




 自分の人生を否定したり拒否したりすることはできないのである。



 あなたが肯定されているからこそ、あなたは今生きているのであり、またあなたが受容されているからこそ、あなたは今を受け入れているのである。




 あなたを生きるものは、あなた自身の言葉である、あなたの独自のものと人間共有のものを通して、あなたの生を理解し、また感銘を抱き、あなたの生を余すところなく味わっているのである。




 同じように、今を生きているあなたの隣人もまた、あなたが肯定し、また受け入れなくてはならない。




 あなたがあなたの隣人を味わおうとすれば、そこには味わえば味わうほど、味わい尽くせない世界が広がっている。






  *





 中世キリスト教神学を元にしたこのシリーズの後には、わたしたち自身のことを書きたいと考えています。




 あなたのおそれ、あなたの悲しみ、あなたの苦しみについて語りたいと思っています。

 




  *



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 既刊作品



同胞たる、おっとりとした頬を求めて!



 「プロメテウス 詩篇第1部 精霊たちとの対話」


(抜粋)

「非情にも、わたしをこの荒涼とした場所に繋いだ、主なる貴方よ。
 
 貴方は、わたしを未来永劫の苦しみに繋いだつもりであろうが、この苦しみにわたしが耐えられないわけではない。

 なぜなら、貴方からわたしが与えられている苦しみは、主なる貴方がわたしに与えているつもりのものにほかならないからである。

 貴方は、わたしを永劫の苦しみに苛(さいな)ませているように見せているが、ほんとうに苦しみに苛んでいるのは、むしろ、わたしにかくのごとき苦しみを与えている貴方のほうなのである。

 それは、わたしなくして、貴方が未来永劫、生きることはないからである。

 わたしを苦しませることは、むしろ貴方自身を苦しい瀬戸際に追い込んでいるのである。

 わたしは、貴方の底知れぬ孤独を知っている。

 貴方が、どうして数多のものを創造しなければならなかったか、その理由がよく理解できる。

 数多のものを創造した創造主であるにもかかわらず、自身が創造したものを生きることができない、貴方の無念さがとてもよくわかる。

 さあ、語るとしよう。

 自身と対等なものを持つことのない、貴方の永遠の孤独のことを。」


 

 「プロメテウス 詩篇第2部 哲学への問い」



(抜粋)


「わたしを超えてわたしを生きる、わたしの主なるものであるものよ。

 貴方は、わたしを通して、互いに対等なものどうしであるものを生きようとしたが、貴方自身が満ち足りることはなかった。

 そこで貴方は、互いに対等なものどうしであるものに、貴方の神性であるものを付与することにした。

 それは、自身と対等なものを持たない創造主の孤独である。

 それを自由とか個人という言葉に包(くる)むと、貴方は、互いの絆であるものから分かたれた、個々のわたしであるものを通して、貴方であるものを生き始めたのであった」

 地から声がする。

  われ思う。ゆえにわれ在り──


「疑い得ぬ自分がわたしを捉えると、貴方は疑い得ぬわたしを通して、世界を治め始めた。

 貴方から生きられる世界は疑い得ぬ世界であり、貴方を通して世界を生きる人間は、真実の生を生きるものとされた。

 こうして、間違わない人間による、間違わない人間どうしの闘争が繰り広げられることになった。

 人間は世界について理解することを通して、世界の主人となり、また自分たち自身について理解することを通して、自分たちの支配者となる。

 互いに対等なものどうしであるはずのものは、互いから分かたれ、互いを損ない合うことで、貴方からより生きられるものとなったのであった。

 かくして世界は、互いに対等なものどうしが、バラバラに分かたれた場所になったのである。」




 「プロメテウス ノート」

(抜粋)

 わたしを貴方から分かつことで、貴方であるものをさらに生きようとする貴方は、さらにわたしに試練を与えることで、より貴方自身であるものを生きようとしたのである。

 第一にそれは、わたしが、貴方以外のものを生きることを厳しく禁じることであった。
 貴方以外のものを生きるものは、創造主である貴方から滅ぼされることになるのである。
 ソドムとゴモラとは、わたしが、貴方以外のものによって生きることで貴方であるものが激しく損なわれたことの報いとして、貴方によって滅ぼされるわたしのことである。
 
 次に貴方は、わたしが貴方を離れて、自身と対等なものどうしと互いにより生き合われることに楔(くさび)を打つことにしたのであった。
 わたしが互いにより生き合われることが、貴方の存在を脅かすように感じられたからである。

 貴方は、わたしが互いに対等なものどうしの言葉によって生きられるよりも、貴方の言葉によってのみに生きられるために、自身と対等なものどうしの言葉を乱し、自身と対等なものどうしの絆であるものをことごとく破壊したのである。
 バベルの塔とは、わたしが互いに対等なものどうしをよりよく生き合う絆を表したものである。

 さらに貴方は、わたしがただ貴方によって生きられるように、わたしに試練を与えたのであった。

 すなわち、わたしとわたしの弟に、それぞれ貴方が欲しているものを持ってこさせると、貴方は、わたしの弟のものだけを受け取り、わたしのものを受け取らなかったのである。

 貴方から愛されないことを感じたわたしは、貴方から愛されたわたしの弟に激しい憎しみを抱くと、人類最初の殺人を犯したのであった。
 人類最初の殺人として旧約聖書で記述されている、カインとアベルの物語。

 しかし、貴方のわたしに対する不信は、なお終ることはなかった。



 「プロメテウス 新しきイエス」


(抜粋)


 荒れ野でひとり飢えに苦しみながら、瞑想に耽っていると、あなた自身であるかのように、あなたの中で、あなたに向かって語りかける声があった。

 ――わたしは、あなたのあらかじめなる血である。
   あなたがわたしからあらかじめ息づかされるなら、
   わたしは、あなたを、数多のものをあらかじめ息づかせる主なるものにしよう。

 それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多のからだであるものから分かち、わたしを通して数多のからだであるものをあらかじめ生きようとするのか。
 わたしは数多のからだであるものと互いにあらかじめ息づかれ合うことで、互いのより「強くあるもの」を生きられ合うからだである。」

 それはまた、あなたにこう語りかけた。

 ――わたしは、あなたの高き胸である。
   あなたがわたしから導かれ、育まれるなら、
   わたしは、あなたを、数多のものを導き、育む導き主にしよう。

 それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多の耳であるものから分かち、わたしを通して数多の耳であるものを導き、育もうとするのか。
 わたしは数多のものと互いに導き、育み合うことで、互いのより「聡くあるもの」を生きられ合うからだである。」

 それはまた、あなたにこう語りかけた。

 ――わたしは、あなたの限られなき腕である。
   あなたがわたしから創造され、在らされるなら、
   わたしは、あなたを、数多のものを創造し、在らせる創造主にしよう。

 それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多の脚であるものから分かち、わたしを通して数多の脚であるものを創造し、在らせようとするのか。
 わたしは数多のものと互いに創造し、在らせ合うことで、互いのより「限られなくあるもの」を生きられ合うからだである。」





 「プロメテウス 新しきシッダッタ」


(抜粋)

 自身を超えて自身を生きるものによって生きられるために、貴方が損なったものは、貴方自身を生きる貴方であることを理解した貴方は、自身を超えて自身を生きるものによって生きられるために、なにゆえ貴方自身を生きる貴方自身であるものを損なわなければならなかったかを思った。


「わたしは、わたしの強くあるものを生きようとするものを損なうことと引き換えに、わたしを超えてわたしをあらかじめ息づかせるものから、わたしのより強くあるものに生きられようとした。

 しかし、そのことによりわたしが生きられたのは、わたしのより強くあるものとは正反対のものであった。

 すなわちわたしは、わたしを超えてわたしをあらかじめ息づかせるものから、わたしのより弱くあるものに生きられることと引き換えに、わたしの強くあるものを生きようとするものをおびただしく損なってきたのである。


 またわたしは、わたしの聡くあるものを生きようとするものを損なうことと引き換えに、わたしを超えてわたしを高く導きはぐくむものから、わたしのより聡くあるものに生きられようとした。

 しかし、そのことによりわたしが生きられたのは、わたしのより聡くあるものとは正反対のものであった。

 すなわちわたしは、わたしを超えてわたしを高く導きはぐくむものから、わたしのより疎くあるものに導きはぐくまれることと引き換えに、わたしの聡くあるものを生きようとするものをおびただしく損なってきたのである。



 「プロメテウス 邪宗門」


(抜粋) 


 なにものでもあるし、なにものでもないあなたは、あるとき、自分自身に対して、どのようにも生きることができるという内なる声を聞いた。

 それは世界を創造または捏造する存在としての自分である。

 わたしたちは、自身が創造または捏造した世界から生きられている。
 その意味では、世界の創造者、または捏造者であるわたしたちが、自身について思弁するということは、じつはとても無意味なことなのである。

 そもそも思弁は、じつは存在しない。
 それは、思弁が、創造、または捏造された世界の一部であるからである。
 つまり、どんな思弁も意味がなく、しかも、わたしというものは存在している。

 それは、この存在を唯一支えてくれるものがあるからである。
 この存在を唯一支えてくれる存在、それが神であり、神とのつながりである、信仰心である。

 数学者、科学者であったあなたは、科学の無力を感じ、神への信仰に入った。

 同時代人の、近代的哲学の祖と言われる、あなたのライバルもまた、神への信仰を証するために真なる知を求めた人であった。

 神への信仰の下に、科学は創造され、神への信仰がなければ、どんな科学もまったく意味がなく、信仰と科学とは一つに結ばれていたのである。

 人間が自然の中で取るに足らない存在であることを明らかにすることを通して、人間にとっていかに神が必要なのかと、あなたは語ろうとしたのである。


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