自分自身の言葉から創造されている(トマス・アクィナス) | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 「自分自身の言葉から創造されている」。




 あなたは、他の言葉からではなく、自分自身の言葉から創造されている。




 あなたが創造されるのは、他のどんな言葉でもない。あなた自身の言葉でなくてはならない。




 あなた自身の言葉でなくては、あなたを創造することはできないであろう。




 あなたを生きるものが、あなたを創造するのは、あなたの言葉においてである。




 あなたが、あなたを生きるものを、あなた自身の言葉において捉えるのでなければ、あなたを生きるものはどのような言葉をもってしてもあなたを創造することは不可能なのである。




 しかし、あなたが、あなたを生きるものを、あなた自身の言葉において捉えることができれば、すなわち、あなたを生きるものの言葉が、あなた自身の言葉になるならば、あなたはあなたを生きるものから限りなく在らされ、創造されることになるであろう。




 あなたを生きるものの言葉は、あなた自身の言葉であり、あなたを離れては意味を持たないであろう。




 このことを一言で言い表すなら、あなた自身の言葉以外になにも存在しないということである。




 あなたの言葉になったとき、それはあなたの言葉として存在し、あなたの言葉になる前は、あなたにおいて存在しないに等しいからである。




 あなたを生きるものは、このように、あなたと一つになることで、あなたにおいて存在することになる。あなたと一つになった、あなたを生きるものが、あなたを限りなく在らせ、創造するのである。



 

 このことが、あなたに限りない力を与えてきた。




 あなたは、限りない存在として、あなたとあなたの周りのものを創造してきたのである。




 すなわち、あなたの中の、あなたを超えてあなたを生きるものを通して、あなたは、あなた自身の限界を超えてあなた自身とあなたの周りの世界を創造し、




また、あなたの中の、互いに対等なものどうしを生きるものを通して、あなたは、互いに対等なものどうしであるものを創造したのであった。




   *




 西洋に見る文化の発展は、絶対的神に代って世界を創造してきたものだという感じを強く持つ。




 それに比して、東洋では絶対的神は存在せず、人間がいかに神になるかの歴史であるように思える。特定の個人が神として互いに対等なものどうしの上に君臨してきたのである。




 また、互いに対等なものどうしの間から、特定の人間が神格を与えられてきたのである。



 

 つまり、特定の個人を通して、互いに対等なものどうしは結ばれ、また創造し合ってきたのである。




 極言すれば、西洋の絶対的神に対して個人の生が限定されていたのに対して、東洋では、特定の神格化された人間に対して個人の生が限定されていたということである。




 むろん、西洋においても特定の権力者が個人の生を縛っていたが、東洋においてはさらに精神面についてそうであった。




 *


 

 話を戻そう。




 あなたの生を解放するのは、誰でもない。




 あなた自身である。




 あなた以外のものは、あなたが自らを解き放つための手助けをするだけである。




 あなた以外のものの言葉は、あなたがあなた自身の言葉に消化したときに、あなたを生きるものとなり、あなたを限りなく在らせ、創造するものとなるのである。




 しかし、あなたは、あなたを限りなく在らせ、創造させているのは、あなた以外のものであると考える。




 そして、あなたを限りなく在らせ、創造させているものを神格化する。




 それは、そうすることで、あなた自身の心の負担を減じることになるからかもしれない。




 あなたの解放者をあなたの外に置くことで、あなたは身軽にあなた自身を処することができるのである。




 確かに、鎖から解き放つには、縛られている当人ではないのが自然である。




 しかし、縛られているわが身を見事に解き放つマジックはあるのである。




 あなた以外のものは、あなたが自らの鎖を解き放つためのヒントをもたらすだけである。




 あたかもあなた以外のものによって解き放たれ、新しい息吹を与えられたかのように、あなたは生まれ変わり、限りなく自分自身を生きるようになる。




 そして、あなたは、自らの力でわが身を解き放ち、自由の生を手に入れたのだということに気づかないのである。




 このことが、あなたの中に、良くも悪くも魔であるものが入り込む余地を与えることになる。




 あなたを生きるものが、あなたを思い通りにしようとする。それも、あなた自身がそれを望んで。




 本来、あなた由来のものであるものを、あなたを超えてあなたを生きるものであるとか、互いに対等なものどうしを生きるものだとか捉えることで、あなたは、それらに絶対服従しなければならなくなるのである。




 たとえば、あなたの中の欲望であるものが、神格化されることで、あなたが絶対服従しなければならないものとなり、あなたをあなたの欲望に否が応でも従わせるといったことである。




 また、あなたの中の愛であるものが、神格化されることで、あなたが絶対服従しなければならないものとして、愛を絶対視して生きるということもあるであろう。そこから芸術が生まれてくるのであるが。




 どんな言葉も、みなあなた自身の言葉であることに思い至ろう。



 

 ただその言葉が、あなたにどの程度受容されているかの違いで、あなた自身の言葉としての成熟の度合いが異なっているだけである。



 

 つまり、より熟している言葉は、あなたを余すところなく創造する言葉であり、より熟し切れていない言葉は、あなたを創造し切ることができない言葉だということなのである。







  *





 中世キリスト教神学を元にしたこのシリーズの後には、わたしたち自身のことを書きたいと考えています。




 あなたのおそれ、あなたの悲しみ、あなたの苦しみについて語りたいと思っています。

 




  *



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 既刊作品



同胞たる、おっとりとした頬を求めて!



 「プロメテウス 詩篇第1部 精霊たちとの対話」


(抜粋)

「非情にも、わたしをこの荒涼とした場所に繋いだ、主なる貴方よ。
 
 貴方は、わたしを未来永劫の苦しみに繋いだつもりであろうが、この苦しみにわたしが耐えられないわけではない。

 なぜなら、貴方からわたしが与えられている苦しみは、主なる貴方がわたしに与えているつもりのものにほかならないからである。

 貴方は、わたしを永劫の苦しみに苛(さいな)ませているように見せているが、ほんとうに苦しみに苛んでいるのは、むしろ、わたしにかくのごとき苦しみを与えている貴方のほうなのである。

 それは、わたしなくして、貴方が未来永劫、生きることはないからである。

 わたしを苦しませることは、むしろ貴方自身を苦しい瀬戸際に追い込んでいるのである。

 わたしは、貴方の底知れぬ孤独を知っている。

 貴方が、どうして数多のものを創造しなければならなかったか、その理由がよく理解できる。

 数多のものを創造した創造主であるにもかかわらず、自身が創造したものを生きることができない、貴方の無念さがとてもよくわかる。

 さあ、語るとしよう。

 自身と対等なものを持つことのない、貴方の永遠の孤独のことを。」


 

 「プロメテウス 詩篇第2部 哲学への問い」



(抜粋)


「わたしを超えてわたしを生きる、わたしの主なるものであるものよ。

 貴方は、わたしを通して、互いに対等なものどうしであるものを生きようとしたが、貴方自身が満ち足りることはなかった。

 そこで貴方は、互いに対等なものどうしであるものに、貴方の神性であるものを付与することにした。

 それは、自身と対等なものを持たない創造主の孤独である。

 それを自由とか個人という言葉に包(くる)むと、貴方は、互いの絆であるものから分かたれた、個々のわたしであるものを通して、貴方であるものを生き始めたのであった」

 地から声がする。

  われ思う。ゆえにわれ在り──


「疑い得ぬ自分がわたしを捉えると、貴方は疑い得ぬわたしを通して、世界を治め始めた。

 貴方から生きられる世界は疑い得ぬ世界であり、貴方を通して世界を生きる人間は、真実の生を生きるものとされた。

 こうして、間違わない人間による、間違わない人間どうしの闘争が繰り広げられることになった。

 人間は世界について理解することを通して、世界の主人となり、また自分たち自身について理解することを通して、自分たちの支配者となる。

 互いに対等なものどうしであるはずのものは、互いから分かたれ、互いを損ない合うことで、貴方からより生きられるものとなったのであった。

 かくして世界は、互いに対等なものどうしが、バラバラに分かたれた場所になったのである。」




 「プロメテウス ノート」

(抜粋)

 わたしを貴方から分かつことで、貴方であるものをさらに生きようとする貴方は、さらにわたしに試練を与えることで、より貴方自身であるものを生きようとしたのである。

 第一にそれは、わたしが、貴方以外のものを生きることを厳しく禁じることであった。
 貴方以外のものを生きるものは、創造主である貴方から滅ぼされることになるのである。
 ソドムとゴモラとは、わたしが、貴方以外のものによって生きることで貴方であるものが激しく損なわれたことの報いとして、貴方によって滅ぼされるわたしのことである。
 
 次に貴方は、わたしが貴方を離れて、自身と対等なものどうしと互いにより生き合われることに楔(くさび)を打つことにしたのであった。
 わたしが互いにより生き合われることが、貴方の存在を脅かすように感じられたからである。

 貴方は、わたしが互いに対等なものどうしの言葉によって生きられるよりも、貴方の言葉によってのみに生きられるために、自身と対等なものどうしの言葉を乱し、自身と対等なものどうしの絆であるものをことごとく破壊したのである。
 バベルの塔とは、わたしが互いに対等なものどうしをよりよく生き合う絆を表したものである。

 さらに貴方は、わたしがただ貴方によって生きられるように、わたしに試練を与えたのであった。

 すなわち、わたしとわたしの弟に、それぞれ貴方が欲しているものを持ってこさせると、貴方は、わたしの弟のものだけを受け取り、わたしのものを受け取らなかったのである。

 貴方から愛されないことを感じたわたしは、貴方から愛されたわたしの弟に激しい憎しみを抱くと、人類最初の殺人を犯したのであった。
 人類最初の殺人として旧約聖書で記述されている、カインとアベルの物語。

 しかし、貴方のわたしに対する不信は、なお終ることはなかった。



 「プロメテウス 新しきイエス」


(抜粋)


 荒れ野でひとり飢えに苦しみながら、瞑想に耽っていると、あなた自身であるかのように、あなたの中で、あなたに向かって語りかける声があった。

 ――わたしは、あなたのあらかじめなる血である。
   あなたがわたしからあらかじめ息づかされるなら、
   わたしは、あなたを、数多のものをあらかじめ息づかせる主なるものにしよう。

 それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多のからだであるものから分かち、わたしを通して数多のからだであるものをあらかじめ生きようとするのか。
 わたしは数多のからだであるものと互いにあらかじめ息づかれ合うことで、互いのより「強くあるもの」を生きられ合うからだである。」

 それはまた、あなたにこう語りかけた。

 ――わたしは、あなたの高き胸である。
   あなたがわたしから導かれ、育まれるなら、
   わたしは、あなたを、数多のものを導き、育む導き主にしよう。

 それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多の耳であるものから分かち、わたしを通して数多の耳であるものを導き、育もうとするのか。
 わたしは数多のものと互いに導き、育み合うことで、互いのより「聡くあるもの」を生きられ合うからだである。」

 それはまた、あなたにこう語りかけた。

 ――わたしは、あなたの限られなき腕である。
   あなたがわたしから創造され、在らされるなら、
   わたしは、あなたを、数多のものを創造し、在らせる創造主にしよう。

 それに対してあなたは、
「なにゆえに、わたしを数多の脚であるものから分かち、わたしを通して数多の脚であるものを創造し、在らせようとするのか。
 わたしは数多のものと互いに創造し、在らせ合うことで、互いのより「限られなくあるもの」を生きられ合うからだである。」





 「プロメテウス 新しきシッダッタ」


(抜粋)

 自身を超えて自身を生きるものによって生きられるために、貴方が損なったものは、貴方自身を生きる貴方であることを理解した貴方は、自身を超えて自身を生きるものによって生きられるために、なにゆえ貴方自身を生きる貴方自身であるものを損なわなければならなかったかを思った。


「わたしは、わたしの強くあるものを生きようとするものを損なうことと引き換えに、わたしを超えてわたしをあらかじめ息づかせるものから、わたしのより強くあるものに生きられようとした。

 しかし、そのことによりわたしが生きられたのは、わたしのより強くあるものとは正反対のものであった。

 すなわちわたしは、わたしを超えてわたしをあらかじめ息づかせるものから、わたしのより弱くあるものに生きられることと引き換えに、わたしの強くあるものを生きようとするものをおびただしく損なってきたのである。


 またわたしは、わたしの聡くあるものを生きようとするものを損なうことと引き換えに、わたしを超えてわたしを高く導きはぐくむものから、わたしのより聡くあるものに生きられようとした。

 しかし、そのことによりわたしが生きられたのは、わたしのより聡くあるものとは正反対のものであった。

 すなわちわたしは、わたしを超えてわたしを高く導きはぐくむものから、わたしのより疎くあるものに導きはぐくまれることと引き換えに、わたしの聡くあるものを生きようとするものをおびただしく損なってきたのである。



 「プロメテウス 邪宗門」


(抜粋) 


 なにものでもあるし、なにものでもないあなたは、あるとき、自分自身に対して、どのようにも生きることができるという内なる声を聞いた。

 それは世界を創造または捏造する存在としての自分である。

 わたしたちは、自身が創造または捏造した世界から生きられている。
 その意味では、世界の創造者、または捏造者であるわたしたちが、自身について思弁するということは、じつはとても無意味なことなのである。

 そもそも思弁は、じつは存在しない。
 それは、思弁が、創造、または捏造された世界の一部であるからである。
 つまり、どんな思弁も意味がなく、しかも、わたしというものは存在している。

 それは、この存在を唯一支えてくれるものがあるからである。
 この存在を唯一支えてくれる存在、それが神であり、神とのつながりである、信仰心である。

 数学者、科学者であったあなたは、科学の無力を感じ、神への信仰に入った。

 同時代人の、近代的哲学の祖と言われる、あなたのライバルもまた、神への信仰を証するために真なる知を求めた人であった。

 神への信仰の下に、科学は創造され、神への信仰がなければ、どんな科学もまったく意味がなく、信仰と科学とは一つに結ばれていたのである。

 人間が自然の中で取るに足らない存在であることを明らかにすることを通して、人間にとっていかに神が必要なのかと、あなたは語ろうとしたのである。


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