エックハルトの「離脱」について述べるこのシリーズの最終回は、「所有しようとしない」です。
この「所有」という言葉に、わたしは、単に所有ということ以外に、「知る」「理解する」という意味を含めて理解したいと思います。
貴方は、所有しようとしてはいけない。
貴方が所有しようとすればするほど、貴方は、ますます所有することができなくなります。
それは、貴方の所有しようという心が、貴方が所有することを妨げているからです。
貴方は、自分が所有するのにふさわしいものになることに努めるべきです。
最もそれを所有するのにふさわしいものこそが、それを所有するべきだからです。
貴方以外、所有できるものはいないからこそ、貴方は所有することができるのです。
もともと誰のものでもなかったものを、強行に自分のものだと主張することほど、浅ましく愚かしいことはありません。
また、貴方は知ろうとしてはいけない。
貴方の知ろうとする心が、貴方が知る範囲を狭めることになるからです。
そこで貴方が得られるものは、貴方が知り得るものだけです。
すなわち、あらかじめ知っていたことに気づかされるというだけであって、なにか新しい知となるものはなにもないのです。
貴方が知るべきことは、貴方がまったく知らないことであるべきです。
というのも、貴方が知らないまったく新しいことこそが、貴方自身を乗り越える動機付けになるからです。
自分がまったく無知であることを自覚することができるものが、新しい知を受け取る権利を与えられるのです。
そして、貴方は理解しようとしてはいけない。
貴方が理解しようとする心が、貴方が正しく理解することを妨げることになるからです。
また、貴方の理解しようという心が、貴方の隣人から理解されたくないと反発されることにもなります。
貴方が理解するのは、あくまで貴方の理解できるものだけだからです。
そこに、貴方が理解しようという相手の存在はありません。
結局は、貴方は貴方の隣人にはなれないし、貴方の隣人は貴方になることはできないのです。
その人自身にならなければ、その人を本当に理解したということにはならないのです。
貴方はただ、理解しようとして理解できない自分を、貴方の隣人に投げかけることだけです。
自分の理解に真っ直ぐに向き合う貴方の姿に、貴方の隣人は自分を理解してもらいたいとするのです。
なぜなら、自分を理解してもらいたいと思わないものは一人もいないからです。
誰もが自分以外のものから理解されたがっている。
けれど、それは、理解しようとしてくるものを受け入れるというカタチではないのです。
理解したいが、理解することができない貴方こそ、貴方の隣人が理解してもらえる存在なのです。
貴方はただ、貴方の隣人から理解させてもらえる部分だけを理解するだけです。
貴方が理解させてもらえる貴方の隣人の部分とは、貴方への信頼のギフトです。
すなわち理解は、求めるものではなく、与えられるものなのです。
それは、愛ということに似ています。
理解は愛なのです。
また、愛は理解だと言えるかもしれません。
あうんの呼吸で感じられるものなのです。
つまり、わかる、ということ。
わかる、という言葉に、どんな理屈もいらないのです。
※さて、今回100回を迎えたところで、「互いに対等なものどうしを生き合う」は終わります。
いままで、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。