今回のテーマは、「守られようとしない」です。
貴方は、なにかによって守られようとしてはいけません。
貴方が貴い存在ならば、貴方は、自ずと守られるはずだからです。
なにかによって守られようとすることは、貴方自ら、自分が取るに足りない賤しい存在であるということを告げるようなものです。
貴方の求めに応じて、貴方を守るものは、貴方のその自分が取るに足りない賤しい存在であるということを受けて、貴方を守ることと引き換えに、貴方に奉仕を求めるでしょう。
これが、主なるものとその僕(しもべ)の関係として考えられた関係です。
僕(しもべ)は、主なるものの絶対的な力から守られる代わりに、ただ一人貴い存在として主なるものを讃え、自身は賤しいものとして身も心も捧げて、主なるものに仕えるのです。
それは、自身がいかに貴い存在であるかに気づくことない人生です。
自身を賤しいものとして生きることは、長らくキリスト教の信仰の理想のように語られてきました。
他の宗教も似た状況でした。
しかし、それは、貴方の本来の姿ではありません。
貴方は、貴い存在として創造されたのです。
ただ、それは、主なるものからではなく、互いに対等なものどうしの絆によってです。
貴方の貴さは、貴方の隣人と互いによりよく生き合うことができるということから来ているからです。
互いの貴さがあるからこそ、貴方と貴方の隣人とは、互いをよりよく生き合うことができるのです。
貴方は、自分がいかに貴い存在であるかを感じるだけでいいのです。
そして、貴方の隣人もまた、いかに貴い存在であるかを感じてください。
互いに貴い存在であるものどうしである、貴方と貴方の隣人とは、互いの貴さによって守られているのです。
さらに貴方は、この世界のありとあらゆるものもまた、貴いということに気がつくことでしょう。
貴い、この世界もまた、守られなくてはならないのです。
貴方と、この世界とは、命の絆で結ばれているからです。
この世界がなければ貴方はなく、貴方がなければこの世界は意味がないのです。
貴方と、この世界とは、互いを創造し合っているのです。
互いの存在の貴さに思いを寄せることで、互いの存在を守ろうと欲するのです。
大切なことは、なにかから守られようとすることではなく、いかに自分が貴い存在であるかを認識することです。
また、貴方以外のあらゆるものが貴い存在であるということを感じることです。
賤しさからは、なにも生まれません。
賤しさは、あらゆる良いものを悪いものに変えてしまう害毒です。
貴方の中の自分を賤しいと思う感情が、せっかくの貴方の貴さであるはずのものを色あせさせ、貴方以外のもののあらゆる貴さであるものを貶めずにはおかない。
貴方は、貴方の中から、貴方の賤しいものを駆除しなくてはなりません。
そして、貴方自身を貴方の貴さで輝かせなくてはなりません。
また、貴方が、貴方以外のものに対して与えた賤しさをすべて綺麗に拭い去らなくてはなりません。
貴方が賤しいと感じているものは、賤しいと感じようとする貴方の心が、本来の貴さであるものを貶めていた結果なのです。
貴方を含めてあらゆるものが貴い存在であるということの気づきから、互いを損ない合うことのない、互いを尊びあい、高めあう世界が創造されてくるのです。