異教徒、主としてイスラム教徒と、キリスト教を学ぶ人たちに向かって書いたトマス・アクィナス。
その真髄はいったいなんでしょうか。
ここで参考として、日本という国の外来文化の受容の仕方について見てみたいと思います。
よその国の文化をただそのまま受容するのではなく、自分たちに合ったものにかたちを変えて、受け容れてきました。
ついこの間までハロウィーンで盛り上がっていた町は、今はクリスマス仕様で、メインストリートには、ネオンのイルミネーションが飾られています。
本来のその行事の精神まで受容されているわけではありません。
あくまで好奇心が強く、愉しいことが好きな日本人が、外国の文化に敬意を払いながら、自国の文化に消化して、季節の旬を楽しんでいるのです。
それは、日本という国が培ってきた、和の精神とつながるものです。
これを、貴方と貴方の隣人の関係で考えてみると、こうなります。
貴方は、貴方の隣人の言葉を、隣人自身の言葉から貴方の言葉に翻案して、受け入れるのです。
自分に合ったものに作り変える。
ときにそれは、本来の意味をそぎ落とすことであるかもしれません。
しかし、貴方が自分仕様に変えることはまったく間違ったことではありません。
大なり小なり、自分に合うようにしなければ、受容することはできないのです。
一人として、同じ理解の仕方をすることはできないのですから。
それぞれの理解の仕方を通して、ある共通の理解をするというのがじっさいです。
ただ、貴方の隣人をもっと理解したいとなったなら、貴方の隣人の言葉の意味をもっと正確に受容しようとするでしょう。
自分仕様に受容されたものと、本来の意味で正確に受容しようとするものとが、貴方の中で並行して存在することになります。
まずは、自分が受け入れやすいところから入ってゆく。
自分が受け入れやすいようにした上で、相手のことをより正しく理解しようとするわけです。
それでも正しく理解しようとした結果、受け入れがたいものになっても、その交流には意味があります。
正しく理解しなくても、相手を受け入れ、信頼を寄せることはできます。
正しさばかりにこだわるなら、いつまでも相手を受け入れることはできません。
相手を受け入れるということこそが大事であり、相手を正しく理解するということは副次的なことに過ぎないのです。
貴方の隣人の側に立って考えてみるなら、こうなります。
貴方が正しく理解しなくてもいい。
貴方が、自分に興味を持ってくれたこと。
そして、理解しようと努めてくれたこと。
少なくとも、ともに感じあうものがあったこと。
互いが信頼し合える存在どうしであると感じたこと。
それでいいのです。
貴方が、貴方の言葉で受け止めてくれたことがすべてです。
貴方の言葉以外の言葉を、貴方に押し付けることはできません。
貴方の言葉以外の言葉を貴方に押し付けようとすれば、貴方はおびただしく損なうことになります。
貴方が自身を満たすのは、誰の言葉でもなく、貴方自身の言葉です。
それは、貴方の隣人に対して寄せる貴方の信頼によって貴方自身の言葉に変換された、貴方の隣人の言葉なのです。
貴方自身の言葉に変換された言葉。
これが、このシリーズでもっとも言いたいことです。
トマス・アクィナスもまた、異なる価値観を持っている人たちや、これからキリスト教を学ぼうとする人たち自身の言葉に変換されたものを書くことに努めたのだと思います。