サン・ヴィクトール学派の最終回は、自由7学科の中の算術を取り上げたいと思います。
算術の第一のことは、一つ一つ数えるということです。
一つ一つがきちんと数えられなければ、正しく把握することはできない。
けっしてどんぶり勘定ではいけない。
これは、一つ一つのものがきちんとあって、全体のものが出来上がっているということなのです。
このことにフォーカスしたいと思います。
つまり創造レベルでは、どんなものにも存在理由があるのです。
存在する理由とは、創造する理由です。
創造する神は、理由なく創造することはない。
どのようなものにも、それを創造した理由がある、ということなのです。
どのようなものにも存在している意味がある。
これはとても大切なメッセージのように思います。
その上で、足したり引いたり掛けたり割ったりの演算があるのです。
個々のものが互いに組み合わされて、この世界は創られている。
どのような存在も、この世界が成り立つのに必要なのです。
そこで思い出すのが、イエスが語ったとされる迷える羊のたとえ話。
迷える1匹の羊を大切にしないものは、残りの99匹の羊を大切にしないのに等しい、と。
個々のものを大切にしないことは、全体を大切にすることはできない、ということです。
個々のものから全体は成り立っているからです。
全体のために個々のものを疎かにしてよいというのは、形ばかりを重んじて中身がないのと同じです。
中世の人は、世界を数える創造神を通して、個々の存在の意味を考えたのです。
また、数は、よりなにかであるという比較にも用いられます。
より多い、より少ない。
より浅い、より深い。
より長い、より短い。
より高い、より低い。
より広い、より狭い。
・・・・
それは、個々の個性として、それぞれの個性が互いに組み合わされて、わたしたちの生きる世界が形作られているのです。
ただ、ここで考えてもらいたいことは、世界には、より優れているとか、より劣っているとかいうものは存在しないのです。
よりなにかであるというのは、たんに個性であるのに過ぎないのです。
よりなにかであるものどうしが組み合わされて世界が創られている。
どのような存在にも意味がある。
そして、互いが互いを創造しあっている。
互いは互いをよりよく生き合うためにある。
たとえば貴方のよりなにかであるのは、貴方がより貴方であるものを生きるために、貴方の隣人のよりなにかであるものから補われるためにある。
鍵と鍵穴の関係のように、互いが繋がるための場所なのです。
誰もみな、誰かと繋がる場所を持っているのです。
誰にも、互いに対等なものどうしを生き合われるための場所があるのです。
より優れている、より劣っている、というのには、なにか世界を支配したい情念のようなものが感じられます。
旧約聖書のなかで、エデンの東に追われたアダム一家の中の長男カインが、弟アベルに嫉妬して人類最初の殺害を犯したのは、まさにこの情念のような気がします。
自分の方がより優れているべきだという思いが、あらゆる悲劇の根元にあるのです。
みんな違っていい。
たしか、こんな言葉がありますね。
自分がないがしろにされた、とか思う必要はないのです。
貴方は、貴方ができることをすればいいだけのことです。
貴方の行為に対して、相手がどのように評価するかはどうでもいいのです。
さて、ここまで、中世のサン・ヴィクトール学派で学ばれていた自由7学科について、自由に想像をめぐらしてきました。
この学派で注目したいのは、宗教家が俗世間から離れて聖なる生活に励むというよくあるかたちをとらず、世俗のものを積極的に吸収していたということです。
聖なる生活を営むべき人間が俗世間のものを積極的に受け入れるとはどういうことか、と一部の方は疑問に思うかもしれません。
しかし、考えてみると、この疑問はじつは創造の神を冒涜しているのです。
というのも、神においては聖俗はなく、ともに神が創造したものだからです。
つまり、いっさいは、神の創造物であって、神に生きるのなら、そのいっさいについて生きなければならないはずだからです。
考えてみればとても当然のような気がしますが、しかし、なぜな聖職者といわれる人たちは、俗世間から離れて生きようとします。
その気持ちが分からないでもないのですが。
個人的な理由で世間から自分を引き離し、聖なる生活の中で自己を取り戻したいのだと思います。
自由7学科は、ただそれを学ぶことが、自ずと神について学ぶことであるとともに、俗世界において活用することで、互いに対等なものどうしがよりよく生き合われることができるものです。
つまり、聖なるものと、俗なるものとが、この自由7学科でつながり、それを深めることで、聖なるものも、俗なるものも、それぞれがよりよく生きられるのです。
聖なるものと俗なるものとが繋がる、最良のツールが、自由7学科と考えることができるわけです。
それが、わたしが、中世のプラグマティズムと考えてみた理由です。