互いに対等なものどうしを生き合う 第52回 ドゥンス・スコトゥスその一 存在の根底の愛 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 今回から7回にわたって、ドゥンス・スコトゥスの説からインスパイアーされたものを、貴方に語っていきたいと思います。


 スコトゥスは、オッカムなどの唯名論者との「普遍論争」で、普遍を主張する側に立った論者として有名な神学者です。



 神学界は、普遍があるかで真っ二つに分かれて大論争になりました。


 唯名論者は、わたしたちは普遍のものに触れることはできない。個別のものがあって、そこから普遍的なものが想像されるだけだと主張します。


 それに対して、普遍論者のスコトゥスはわたしたちが触れることのできる個別のものは、普遍のものから個別に与えられたものだと主張したのでした。



 またスコトゥスの思想の特徴として、理性の活動として、抽象による普遍の認識に加えて、直観による具体的存在の認識を入れたことが挙げられます。



 さて、スコトゥスがさらに注目されるのは、彼が愛の神学者といわれていることです。


 ここでいう愛とは、むろん神の愛です。


 それは、貴方の存在の根底。


 貴方は、神の愛が働く場所であって、神の愛なくしては一瞬たりとも存在しえない。


 貴方の意志は、神の意志に基づくものであり、神の意志は貴方の意志となる。


 それは一見、神への隷従であり、貴方の尊厳性が損なわれることのようにも受け取れます。


 しかし、神は愛であり、神の愛が貴方の存在の根底であるということを認識を持ち、自らの自由意志によって求めるところに貴方の尊厳性が与えられることになるのです。


 つまり、貴方の存在の根底が神ならば、自ら貴方の存在の根底である神を求めるべきである、ということです。


 自分の存在の根底を自らの意志で生きる。


 そこに、貴方の尊厳性がある。



 

 さて、ここからが本題です。


 貴方の存在の根底である神の愛を、これから、貴方の隣人と貴方が生きる世界に置き換えて述べていこうと思います。




 貴方は貴方一人で存在しているのではありません。


 ふと思ったりするのは、この世界は、自分の意識こそが作り出しているのではないか、というものです。


 しかし、貴方の意識はどうやって作り出しているのか。


 なにもないところに、なにかが生まれることはないのです。


 貴方の意識を作り出しているものがなくてはなりません。


 貴方の意志を作り出しているものは、貴方が現に触れている、貴方の隣人であったり、貴方の生きている世界なのです。


 貴方は、貴方の隣人や、貴方の生きる世界から生きられている。


 これこそが真実です。




 貴方が生きるというのは、貴方の隣人や、貴方の生きる世界から生きられていることに基づいているのです。


 貴方の隣人からどのように生きられているかが、貴方が貴方の隣人をどう生きるかを決定し、貴方の生きる世界から貴方がどのように生きられているかが、貴方が貴方の生きる世界をどう生きるかを決定しているのです。


 だから、貴方は、貴方の隣人から生きられている自分を生きる、それが貴方の存在の根底を生きるということです。


 貴方の生きる世界から生きられている自分を生きる、それが貴方の存在の根底を生きるということです。


 


 もう一度、スコトゥスの「神の愛」に立ち戻って言い換えるなら、貴方の存在の根底は、貴方の隣人の愛であり、貴方の生きる世界の愛ということです。


 貴方が貴方の隣人から生きられているのは、貴方の隣人の愛なのだ、と考えてみるとどうでしょうか。


 また、貴方が生きる世界から生きられているのは、貴方の生きる世界の愛なのだ、と。


 なかなか理解しにくいかもしれません。


 しかし、存在の根底を愛と置き換えて考えると、なんとなく理解できるような気がしてきます。


 じっさい、スコトゥス的には神の愛が存在の根底なのですから、存在の根底は愛だとしてもいいのではないでしょうか。




 貴方は、貴方の隣人の愛によって存在し、貴方の生きる世界の愛によって存在している。


 素晴らしい考えではないでしょうか。


 みな愛の中に包まれているのですね。


 そこにはどんな争い、いさかいもありえないのです。


 いっさいは愛なのですから。


 ただ、愛ゆえに憎しみが募るということはあるかもしれません。


 いや、それこそ、問題の本質かもしれない。


 ささいな行き違いが互いの誤解をもたらし、相手を知らないことが余計な想像をもたらす。


 ここにいっさいの問題の種があるのです。