プロメテウス 第39回 仕組み全体を変えるには、仕組みを成り立たせるものから変えなくてはならない | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 どのようにしたら、自分たちを縛っている仕組みを変えられるのか。


 それまでの哲学、科学、経済学から最大限に答えを導き出そうとしたカール・マルクス。


 彼は唯物史観を用いることでわたしたちの社会を観察し、唯物的弁証法を用いてわたしたちの社会システムの変更を説きます。


 ただ、それは方法的唯物論と呼ぶべきものであろう、とわたしは考えます。


 そもそも唯物的世界は、精神との関係で論じられるべきもので、精神を抜きにしては成立しない議論なのです。


 精神だけをどんなに論じても精神は解放されない。


 精神を支配しているシステムを変えなくては、わたしたちの精神はいっこうに解放されることはできないと、彼は考えたのだと思います。


 もとはわたしたちの精神がつくりだしたシステム。


 しかし、システムは精神から独立すると、精神を支配するようになったのです。


 これは、貴方を超えて貴方を生きる、貴方であるものと重なります。


 貴方を超えて貴方を生きる、貴方であるものは、貴方の生がつくりだした怪物なのです。


 それから支配を受けているという点で、精神が作り出したシステムと同じです。


 精神を支配するシステムを変更するためには、システムを創造している要素を分析することがなくてはなりません。


 それに有効な方法こそが、すべては物質であるという思想、つまり唯物論なのです。


 唯物論を用いることで、システムを構成しているものが本当はなにかが見えてくる。


 システム自身を変えること自体は、じっさいなんでもないかもしれません。


 ただ、いったん精神を支配するようになったシステムは、それによって生きる多くの精神を飲み込んでいるのです。


 つまり、システムを変えようとすると、そのシステムによって生きる精神たちと、激しくぶつかることになるのです。

 

 システムにしたがっている精神を説得すること、それが民主主義による解決の道です。


 しかし、システムにしたがっている精神を説得することは、そう簡単にはいきません。


 それが困難であればあるほど、また今すぐなんとかしなければならない状況があればあるほど、いっきに解決する方法として革命という手段が選択される。


 これが、マルクスが予測した新しい革命(フランス革命とは別次元の革命という意味で)です。


 つまり、わたしたちは、(フランス革命の)市民革命によって、わたしたちの自由を奪っている階級から解き放たれたが、なおわたしたちの自由を奪っている社会のシステムは残存して、わたしたちから自由を奪い続けているのです。


 わたしたちは、さらに、わたしたちの自由を奪っている社会のシステムを、わたしたちの自由を保証するものに作り変えなくてはなりません。


 それには少しずつ段階的に行う道もありますが、そんなにゆっくりやってはいられず、半ば強引でも力づくで行う道もあるとして、彼は「共産主義革命」を説いたのだろうと思います。


 しかし、このことで、互いに対等なものどうしは、社会のシステムの変更を望むものと、その社会のシステムを守ろうとするものとに、引き裂かれることになりました。


 つまり、社会のシステムの変更を望む貴方は、あるべき貴方とあるべき社会のための運動へと駆り立てられ、一方、社会のシステムを守ろうとする貴方もまた、今の貴方と今の社会の維持のための、運動に対する反対者(保守反動)になっていったのです。


  *


 プロメテウス、ある革命家の魂に向けて語りかける。


 「貴方は、互いに対等なものどうしがよりよく生き合われるために、互いに対等なものどうしを縛っている社会システムを変更しようとした。


 しかし、そこには、その社会システムを維持したい、貴方の同胞もいたのである。


 貴方は、互いに対等なものどうしがよりよく生き合われるためには、社会のシステムを変えなくてはならないという確信があった。


 その確信に対して、貴方は、忠実でなければならず、裏切るようなことはできないのである。


 貴方は、貴方の愛する友を敵にしなくてはならなかった。


 そうして、貴方と、貴方の愛する友の間で、おびただしい血が流れた。


 貴方の愛する友の血が貴方によって流され、貴方もまた、貴方の愛する友の手によって血を流したのである。


 おお、なんと痛ましいことであろうか。


 互いに対等なものどうしがより生き合われる世界のために、自分の命を賭した貴方の魂がかなしい。


 貴方によって、血を流さなくてはならなかった、貴方の愛するものたちの魂がかなしい。


 貴方と、貴方から傷つけられた貴方の愛するものたちとは、ほんとうは、互いによりよく生き合われるはずの魂であったのに。


 もし、そこに、別の生き方があったら、貴方と、貴方の愛するものとは、互いを傷つけ合わずに済んだかもしれなかった。


 おびただしく傷ついたあと、貴方は思う。


 そもそも、どうしてこの運動があったのか。


 そもそものこと。そこから立ち返って、今の方法が間違ってはいないかを問おう。


 しかし、今の方法を手放すことができない貴方は、なかなか正しいものは見つけることはできないであろう。


 むしろ、今の方法は間違っていると最初から考えることが、貴方にとって、ずっと有用かもしれない。


 そうしたうえで、つねにそもそものところに立ち返って、互いが損ない合われることのない、よりよい方法を求めて議論を徹底的に尽くのである。


 貴方は、貴方の愛する隣人たちと、ともによりよく生き合われることを望んでいるのではないだろうか。


 貴方の愛する隣人たちもまた、貴方とともによりよく生き合われることを望んでいるのではないだろうか。


 貴方にとって大事なこと。それは、互いが、互いをよりよく生き合われる社会を持つことである。


 そのために、貴方は、貴方と貴方の愛する隣人とが損ない合うことは、絶対避けなくてはならないのである。


 なぜなら、それは、貴方と、貴方の愛する隣人とが、もう互いをよりよく生き合われることではなくなるからである。


 そしておびただしい血が流れたのちに、互いが互いをよりよく生き合われる社会が築かれたとしても、それはどこかインチキ臭く、こんなものではなかったとして、すぐにも作り変えなくてはならなくなるであろう。


 では、そもそものこととはなにか。


 それは、互いがよりよく生き合われるためには、精神だけではなく、物である、社会のシステムを変えなくてはならない、と考えたことである。


 そこに何度でも立ち返って、考える勇気を持つことである。


 勇気。そう勇気なのである。


 そもそものところに立ち返って考えることを、よからぬ思想の持ち主と考える人たちに対する勇気である。


 貴方は、貴方の運動の指導者のために行動するのではなくて、互いに対等なものどうしがよりよく生き合われるために行動するのだから。


 また、自分の過ちを素直に認めることのできる勇気である。


 勇気は、貴方自身と、互いに対等なものどうしがよりよく生き合われるためにこそ、用いられるべきなのである。」


※東欧諸国の旧社会主義政権は、どこかインチキ臭い、張りぼての社会主義であった。だから、いずれ崩壊する運命にあったのである。また、フランス革命やロシア革命の後、反対勢力に対して行われた粛清のことが思い返される。