互いに対等なものどうしを生き合う 第30回 ルターその七 隣人を通して真実の世界を生きる | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 昨日は、というより、もう今日ですが、日付が変わっての更新となりました。


 今日も、遅めの更新となります。


 このところ、仕事が忙しくて、ブログを書くのが難しくなってきています。


 しかし、頑張って、とにかく書くことを続けたいと思っています。


 とにかく書き続けることで、それまで見たことのなかった世界を見ることになるからです。


 今度はどんな世界が現れることになるかと、毎日わくわくしながら、日々の疲れにもめげず、一生懸命このブログを書いています。


 今日は、夕方、地元開催の祭り、高円寺阿波踊りにちょっと顔を出してきました。


 毎年、盛り上がっていますね。


 個人的には、地元のもう一つの祭り、大道芸祭りの方が好きですが。


 祭りは、見るものではなく、参加するものだと常々思っています。


 見ているだけの自分が妙に気持ちの上で引いている。。。


 なんだかちょっぴり切なさを心のうちにのぞかせながら、見物させてもらいました。


 さて、今日の哲学ブログを始めたいと思います。


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 貴方が見る世界は、必ずしも真実のものとは限らない。


 貴方が真実と思っていることは、貴方がそのように思わせられているものかもしれません。


 貴方が見る世界が真実のものでないとしたら、それは、どのような世界でしょうか。


 それは、貴方を超えて貴方を生きるものが、貴方をより生きるために創造した世界だということです。


 貴方は、貴方を超えて貴方を生きるものが創造した世界を、貴方によって生きられる世界として生きることで、貴方を超えて貴方を生きる貴方であるものから、貴方を超えて貴方を生きるそれ自身として、おびただしく生きられることになるのです。


 貴方が今生きている世界は、貴方が生きるべくして生きられている場所だと思っていることは、じつは、貴方を超えて貴方を生きる貴方であるものが、貴方の生を自身の生として味わい尽くすために、貴方に与えられたものであるかもしれません。



 ルターにとって教会は、神と自分たちを分断して、自分たちの信仰心をむさぼり生きる魔物に見えていたでしょう。


 教会が語る神とわたしたちの関係が、神とわたしたちと関係だと思わせられていることが大問題でした。


 ルターは、教会ではなく、聖書を通して、神とじかに向かうことだけが、唯一、神との真実の関係を結ぶことができる方途である、と考えたのだと思います。


 もっとも、そういうルターの呈示する神との真実の関係もまた、貴方をある定められた世界以外のものを見させないようにするたくらみではあるのですが。




 ルネサンス以降においても、わたしたちは真実の世界からさまざまに遠ざけられ続けてきました。


 政治的文化的権威は、わたしたちをたえず、自分たちの認める世界の内側に置こうとしてきました。


 ある世界のみが真実であって、それ以外のものは偽りであるとして、ある定められた世界観を共有することを強制してきたのです。


 だが、そのような世界観というのは、じっさいは張りぼてで、見かけは立派だが、中身は空っぽなのです。




 では、わたしたちが生きる真実の世界とはどこにあるのかといえば、それは、わたしたち自身の中にあるのだと言いたい。


 どこからあてがわれたものではなく、互いに対等なものどうしが生き合う、この場所に、わたしたちが生きる真実の世界があるのです。




 今わたしが語りかけている貴方との関係、ここに真実の世界があります。


 つまり、互いに対等なものどうしが、じかに向かい合う、この今に、生きられるべき真実の世界が現=在しているのです。




 世界とは、本来、互いに対等なものどうしが、じかに生き合われる場所です。


 じかに貴方の隣人に向かい合わなければ、貴方は、貴方の隣人が貴方に語りかけている言葉を聞くことはできません。


 なぜなら、貴方を超えて貴方を生きるものは、たえず隙を見つけては、貴方と貴方の隣人の間に割り込んで、貴方を貴方の隣人から引き離して、貴方を生きようとするからです。



 貴方と貴方の隣人は、他のなにものをも介さず、ただ互いとじかにかかわることを通してのみ、互いが生き合われる真実の世界を生きることができるのです。