ルターの宗教改革運動にちなみ、じかに生き合われる関係を阻んでいるものを取り除くことで、本来の関係を生き合うものを求めるシリーズの今回は、互いの存在の価値に気づき、互いがそれぞれの存在の意味を生き合うことについて述べたいと思います。
貴方の隣人は、誰よりも貴方の存在の価値を知り、貴方もまた、誰よりも貴方の隣人の存在の価値を知っているのです。
貴方と貴方の隣人とは、互いの価値を誰よりも知り抜いていて、かつ互いの存在の意味を与えあっているのです。
ただ、貴方と貴方の隣人とは、互いの存在の価値を誰よりも知っているという事実に気づかないかもしれません。
それは、貴方と貴方の隣人との間を生きるものが、貴方と貴方の隣人が互いの存在の価値に気づきにくくしているからです。
貴方と貴方の隣人との間を生きるものとはなにか。
ルターの場合なら、それは教会でした。
教会が、貴方と貴方の隣人が互いの存在の価値を認め合い、意味を与えあうことを阻んでいたのです。
しかし、貴方と貴方の隣人とが互いの存在の価値を認め合い、意味を与えあうことを阻んでいるのは、ルターにとっての教会だけではありません。
さまざまなものが、貴方と貴方の隣人とが互いの存在の価値を認め合い、意味を与えあうことを阻んでいます。
それは、ときに、貴方と貴方の隣人の間の絆をよそおったりします。
貴方と貴方の隣人とは、それが互いの関係にとって好ましいものだと思い、それを介して、互いを生きようとしますが、じつは、それは、貴方と貴方の隣人とが互いの存在の価値を認め合うこと、存在の意味を与えあうことを阻んでいるのです。
貴方が、ただしく貴方の隣人と、互いの存在の価値を認め合い、存在の意味を与えあうためには、そうした絆もどきを介さず、じかに相手と向き合うことをすべきでしょう。
じかに互いが向かい合うことで、互いが真に対等なものどうしであり、互いの存在の価値を認め合い、存在の意味を与えあうものどうしであることを理解することができるかもしれません。
そのときにこそ、互いに対等なものどうしの絆であるものが現れるのです。
互いがじかに向かい合うことで得られた絆こそ、本物の絆です。
貴方と貴方の隣人とは、出来合いのものではない、自分たちだけの絆を通して、互いの存在の価値を認め合い、存在の意味を与えあうことを通して、互いが互いにとってなくてはならない存在であることに気が付くのです。
互いが互いにとってなくてはならない存在であることを通して、貴方はさらにこのことを理解するでしょう。
貴方の隣人は貴方の守り人であり、貴方は貴方の隣人の守り人であることを。