プロメテウス 第16回 自分は間違わないという錯覚~デカルト | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 第二ステージを再開します。


 劇詩「プロメテウス」で、わたしは、自分を超えて自分を生きる、自分であるものの本質を、互いに対等なものどうしの絆であるプロメテウスとの対立を通して語りました。


 自分を超えて自分を生きる、自分であるものとは、自身と対等なものを持たない存在であるが、それがゆえに不完全な存在であり、互いに対等なものどうしを生きるために、プロメテウスを創造し、人間を創造したのである、ということでした。


 結論から言うと、ここで表現されている三者、すなわち、


自分を超えて自分を生きる、自分であるものとは、貴方の中の自分を超えて自分を生きようとするものであり、


互いに対等なものどうしの絆であるものとは、互いに対等なものどうしをよりよく生き合おうとするものであり、


人間とは、誰でもない、貴方が生きるべき自分自身のことです。



 世界とは自作自演的な場所であるということ。


 この世界の成り立ちも、わたしたちがそれを志向した結果なのです。


 しかし、世界を成り立たせる、わたしたちの志向そのものをわたしたちが把握することは難しい。


 それでも、わたしたちは、わたしたち自身によって突き動かされている、このことをしっかり意識に止めておきたい。


    *


 このように考えるとき、わたしは一人の哲学者と向き合うことになります。


 コギトの哲学者ルネ・デカルト。


 「われ思う。ゆえにわれ在り」で知られる、近代哲学の産みの親です。


 変わらない自分(コギト)を通して、この世界について解き明かそうとする彼の思想は、今日まで続く合理的な哲学の源泉です。


 世界の因果を追究し、理解することを通して、わたしたちは世界の主人となり、また世界の創造者となる──。


 しかし、現実はどうでしょうか。


 これは21世紀を生き始めているわたしたち自身の事柄です。


 わたしたちは過去の人たちよりも世界についてより理解しているはずですが、世界の主人とか、世界の創造者というのには、ほど遠いのではないでしょうか。


 世界の因果を解き明かすことで、なにか世界の主人となり、世界の創造者のようになったかのようなわたしたちは、世界に対してとても傲慢な態度を幾世紀にわたってとりつづけることになったのです。


 その結果が、わたしたちのまわりの自然に対するおびただしい破壊をもたらすとともに、わたしたち自身に対する数限りない抑圧や紛争を招き寄せたのではないでしょうか。


 じつは世界について、少しもわかってはいない。


 わかっているつもりでしかない。


 むしろ、世界について無知だった時代のわたしたちの方が、世界について理解していたのかもしれない。


 世界について少しでもわかればわかるほど、わたしたちは、世界の理解からさらに遠ざかっていくのです。



 ここで再び「プロメテウス」の劇詩を通して、貴方の個を通して生き始めた、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものについて、語りたいと思います。


   *


 「わたしを超えてわたしを生きるわたしの自分である主。


 貴方は、わたしを通して、互いに対等なものどうしを生きようとしたが、満たされることはなかった。


 そこで、貴方は、互いに対等なものどうしの中に、貴方の神性であるものをもたらすことにしたのである。


 それは、自身と対等なものを持たない、という貴方の神性である。


 貴方はこれを、自由とか個人という言葉にくるむことで、互いに対等なものどうしをその絆から分たつことで、貴方自身を生き始めたのである。」



 声だけがプロメテウスの耳に届く。


 「われ思う。ゆえにわれ在り」。



 「悲しく響く言葉だ。


 疑い得ぬ自分、コギトと呼ばれるものを、貴方は一人の数学者にもたらすと、このコギトを通して、世界を生き始めたのである。


 貴方から生きられる世界は、疑い得ぬ世界であり、貴方を通して世界を生きる人間は、真実に生きるものであり、間違わないものとなったのである。


 こうして、間違わない人間による、間違わない人間どうしの闘争が繰り広げられることになった。


 人間は世界について理解することを通して、世界の主人となった。


 また自分たち自身について理解することを通して、自分たちの支配者となった。


 互いに対等なものどうしであるはずのものは、互いから分かたれ、互いを損ない合うことで、より貴方から生きられるものとなるのである。


 かくして、世界は、互いに対等なものどうしが互いにバラバラに分かたれたものとなった。」



 再び声だけがする。

 「自由よ万歳!」



 「この言葉のなんとそらぞらしいことであろうか。


 自由の言葉の裏で、人間は、互いをおびただしく傷つけ合ってきたのである。


 自分を超えて自分を生きる自分であるものから生きられる、自分はけっして間違わない、という確信のもとに。


 人間よ。貴方がたは、自分たちが互いに対等なものどうしであることを理解していない。


 自分たちが、互いに対等なものどうしをより生き合う存在であることを理解していない。


 自由とは、互いに対等なものどうしから分かたれた自分を生きることではない。


 互いに対等なものどうしをより生き合うためのものなのである。



 すなわち、自由とは、


 自分が間違うことがあることを認めることができ、


 かつ、自分を超えて自分を生きる、自分であるものから自立した、


 互いに対等なものどうしであるものをより生き合うことができる、


 自分を持つことなのである。」



※6月30日の記事「思考には限りがあるということから始める~ブレーズ・パスカル」を合わせて読まれると、より理解されやすいと思います。

 次回からは、デカルト以降の近代哲学の歴史を批判的に論じていくともに、劇詩「プロメテウス」をさらに書き進めていきたいと思っています。