第二ステージを再開する前に、これまで触れなかった一人の思想家について、触れたいと思います。
デカルトとほぼ同じ時代に同じフランスで数学者として活躍したブレーズ・パスカルです。
デカルトは理性の力を信じ、この世の一切のものは因果律によって支配されていて、その法則を通してこの世の成り立ちを理解することができる、と考えました。
そして、あの「われ思う、ゆえにわれ在り」に表されるコギト、思考する自我の永遠性を説いたのです。
それは、現代に至るまでの哲学思想の主流となった考えです。
これに対して、理性の力を信じながらも、われわれの思考にはそもそも限界があって、けっして世界の成り立ちを理解することはできない、とパスカルはとらえ、また、デカルトが思考の中心に置いた自我すなわちコギトを否定したのです。
その上で、限りがある思考を有する自我を思惟する自分を発見しました。
これを彼は、「考える葦」という比喩で語りかけます。
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。
しかしそれは考える葦である。
これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。
一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。
しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう、
なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。
宇宙は何も知らない。
だから我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。
我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって、
我々の満たすことのできない空間や時間からではない。
だからよく考えることに努めよう。
ここに道徳の原理がある。」 (『パンセ』津田穣訳 新潮文庫から抜粋)
限りがある自分を見つめるもう一人の自分を持つ。
これが、彼の考える倫理思想です。
この言葉に、わたしがこのブログで展開しているものを感じ取ります。
パスカルが語ろうとした自分とは、自分を超えて自分を生きる自分であるものを超えた自分なのではないか。
一方、彼のライバルであるルネ・デカルトが説くコギトは、自分を超えて自分を生きる自分であるもの、という感じを持ちます。
そう捉えてみるとき、パスカルが自分の思考を、道徳の原理と位置づけたのはとても的をいていると思います。
自分を超えて自分を生きる自分であるものを超えた自分とは、互いに対等なものどうしの絆につながる自分にほかならず、互いに対等なものどうしがより生き合うことこそ、道徳の原理そのものであるからです。
となれば、これから第二ステージで槍玉にあげるのは、デカルト的な世界観ということになり、わたしを支えるのは、パスカルの道徳の原理ということになるでしょう。
ただ、わたしの考えるものは、そのパスカルさえ批判することになるでしょう。
もっとも、それはパスカル自身が望んでいることかもしれませんが。