イエスなる人間が行ったこととは何か。
わたしは、それを、自分を超えて自分を生きる、自分であるものから、互いに対等なものどうしを解き放ち、互いがより生き合われる、地上の天国を創造しようとしたこと、であると考えます。
つまり、わたしたちの不幸は、自分を超えて自分を生きる、自分であるものによって、互いに対等なものどうしが引き裂かれているということです。
わたしたちが、自分を超えて自分を生きる、自分であるものから解き放たれることで、互いがより生き合われる地上の天国を創造することができるのです。
しかし、イエス自身はどうなのか、というと、彼の言葉から除外されているのです。
彼は、互いに対等なものどうしを、自分を超えて自分を生きる、自分であるものから解き放つ力となるために、彼自ら、自身と対等なものを持たない、自分を超えて自分を生きる、自分であるもの、すなわち、神存在を引き受けたのです。
それは、また自分を超えて自分を生きる、自分であるもの、すなわち、神存在の永遠の孤独を生きることでもあったのです。
イエスは、とても恐ろしい孤独を抱えながら、伝道活動を行っていたのではなかったか、とわたしは想像します。
「マタイによる福音書」第十章で、イエスは突如、こんな恐ろしい言葉を吐きます。
──地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。
平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲違いさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
自分の命を得ているものはそれを失い、
わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
まさに、神なる存在の本質は、ここに語られています。
神なる存在は、神自身にふさわしいものを生かせ、そうではないものを滅ぼすことを厭いません。
また、互いに対等なものどうしを分かつのは、まさに自身と対等なものを持たない神の「御心」なのです。
しかし、イエスはこの、「神」存在としての言葉を、自分を超えて自分を生きる、自分であるもの、すなわち「神」存在から、互いに対等なものどうしを解き放ち、互いに対等なものどうしがより生き合われる、地上の天国を創造するために用いたのです。
これは、とても強烈な力をもった言葉です。
なぜなら、自身を神として語っているからです。
それは、弟子たちを伝道に赴かせるために、必要な言葉だったかもしれません。
彼が神となることで、弟子たちは力を得ることになるからです。
しかし、それは、イエス自身の孤独を深めることになったと、わたしは考えます。
イエスが語る言葉のおそろしさを感じたのは、正統的ユダヤ教徒たちでした。
イエスは、神と自分たちとの間の秩序の恐ろしい破壊者に見えたことでしょう。
そして、イエス自身もまた、自分がそう遠くない時期に、自身の生が終わるときが来ることを、感じていたかもしれません。