意識とからだの新たな関係 (小説「えがく」付) | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 あなたは、感じたことはありますか。

 自分がなにを感じているかを知ろうとすればするほど、分からなくなっていってしまうということを。

 世界について考えようとすればするほど、世界そのものから遠ざかっていってしまうということを。

 それは、私たちの感じ方、思考の仕方そのものが、私たちが感じること、思考することの差しさわりになっているということを示しています。

 つまり、私たちの感じ方が、私が感じているものから、私を遠ざけ、私の思考の仕方が、私が思考するものから、私を遠ざけているのです。

 つまり、私が感じるのは、私が感じようとするものであり、私が思考するのは、私が思考しようとするものなのです。

 このような自身の呪縛から解き放たれなければ、私たちは、自分が本当はなにを感じているのか、思考しているのかに到達することはできないでしょう。

 私がどう感じ、どう思考したかを保留し、ひたすら私が感じたもの、思考したもの自体を見据えよう。

 そう訴えた哲学者が現れたのです。

 彼の名は、エドムント・フッサール。

 そして、このような方法、すなわち感情や思考から、自身の意識を括弧に入れることで、私に起こっていること、つまり私に対して起こっている現象をはっきりと捉えることを提唱するのが、彼が創始した現象学です。

 それは、私がほんとうはなにを感じ、なにを思考しているかを生きる方法ということになります。

 

 人物の顔のデッサンの例で考えてみたいと思います。

 あなたは、一生懸命、人物の顔のデッサンをします。

 しかし、あなたは本当に目で見て、人物の顔を描いているのでしょうか。


 デッサンのうまい人というのは、よく見て描く人のことです。

 反対にデッサンのへたな人というのは、人間の顔はこういうものだ、と頭で描いている人です。

 デッサンのうまい人は、自分の意識から自分の目を切り離すのがうまい人でもあります。

 一方、自分の意識から自分の目を切り離すことができない人は、自分の目を信じていず、自分の意識に自分の目を隷属させているので、自分の先入観に基づく、まったく正確ではないデッサンを描くことになるのです。


 つまり、自分の意識、自分の頭が、自分が感じたこと、思考したことを邪魔しているのですね。

 自分の目が信じられないでいるということは、じつに惜しいことをしているわけです。

 

 同様に、私たちの意識もまた、私たちの感じたこと、私たちの思考から、私たちを遠ざけるのです。


 しかし、ここで、新たな秩序を、私の感情、私の思考にもたらす。

 それは、意識と切り離すことのできない、私が感じたこと、思考したこととの新たな関係の構築です。

 彼が提唱した現象学とは、私たちの意識と、私たちが感じた事柄、私たちが思考した事柄との新たな秩序を築くことなのです。

 そうした私たちの意識と私たちの感じたこと、思考したことの新たな秩序こそ、私たちが真に生きられている、本当の世界なのです。


 今回は、詩ではなく、昔書いた小説を載せたいと思います。


 「えがく」


 昼間の会社勤めが終わると、私はそのアトリエの夜の部の学生として、自分のカンバスを持ち込んで油絵を描いていた。
 アトリエは、平日の一週間交代で着衣とヌードの女性のモデルが来て、月に一回一週間だけは静物画を描くことになっていた。土日はモデルの固定ポーズはなく、裸婦のクロッキー会が朝昼夜の三回、学生以外の一般にも公開されていた。
 そのアトリエの学生になって最初の一週間、コスチュームのモデルと格闘していた私は、翌週裸婦のモデルと向かった。
 裸婦はこれまで何度かクロッキー会に参加していたから違和感は最初からなかったが、その時モデルとして私の前に現れた女性は、これまでに描いてきたモデルとはどこか違うものを感じさせた。
 着ていたものを私たちの前で脱いで自分の裸身をさらした、二十歳くらいといっていいその女性は、予想以上に素晴らしく魅力的だった。
 暗い森の中をさまよってきた後、突然光が差し込めてきらめく泉に出合ったような清冽な裸身だった。私は思わず息を飲んだ。
 私がこれまで何度か出かけていったクロッキー会でもこれほどの感銘を与えるモデルとは出合ったことはなかった。
 私は彼女に一変に魅了されてしまった。
 私は彼女の真正面になる位置を真っ先に確保すると、心が突き動かされるままに、素早くクロッキー帳に彼女を木炭で写し取っていった。
 もうどんなにしてもこの場所を動くまいと決めた。
 一週間の固定ポーズが決まると、私は彼女とほとんど向き合うその位置にイーゼルを据えて、人の半身がすっぽり収まるほどの大きな号の白いカンバスを乗せ掛けた。
 彼女は均整のとれたスラリとした、清水のように瑞々しい白い裸身を正面に向けると、両腕を後ろに回して右手で左の手首を掴まえて、左足を少し前に出し両足を肩幅と同じに開いて立った。
 私は彼女の全身の輪郭を描くと、今度彼女の目を描き込もうと、真っ直ぐ彼女の目を見据えた。
 すると、そこに、髪をショートにレザーカットした彼女が、自分に注がれた視線に抗い、私から視線を懸命に逸らそうとしているのが分かった。
 まばたきを何度もし、あちこち視線をやって、顔の位置がちっとも定まらない。
けれど、彼女自身の自負心からか、気を取り直して、自分への視線に受けて立とうとするように、伏せぎみだった顔と目線を上げると、真っ直ぐ顔を向けた。
 彼女の視線ははっきりと、彼女に注いでいる私の目に向かって投げ返してきた。
その時、私は彼女の裸身を描いているはずが、自分の裸身を彼女にさらしているような感じに、思わずたじろいで目を彼女から外した。
 絵を描く者はモデルと目を合わせてはならない、ということを私は、あるテキストの中で目にしたことがある。
 目を合わせると、そこから現実の関係性の中に位置づけられた自分自身に引き戻されるのだろうか。
 絵のモデルとそのモデルを描く者とは、ともに現実から遊離した純粋な美の世界に生きているのだ。
 私はこの瞬間において彼女を現実の自分の恋人のようにしていたことに気づくと、純粋に絵を描こうとしていなかった自分を恥じた。
 私は彼女を真正面から描くことにこだわった。
 モデルと私とがじかに向き合う以外には、誰もそこには入ってこれないという感覚が、私を痺れさせた。
 私はこの関わりにおいて、すべての芸術家に与えられた権利、
 現実では関わることはなかったであろう、絵の中だけに生きている彼女に恋する権利を与えられたのだ。
 何がなんでも一枚のカンバスの上に彼女を描ききろうと、私は強く思った。
 私がつとめて彼女を真っ直ぐ捉えようとすると、彼女の二本の脚の付け根の内側の茂みになった部分の下の、
唇を思わせるものが私の目にさらされているのを意識したのか、彼女はちょっと左右の脚を捩って太ももの内側にその部分を隠した。
 皆さんにあえて念を押して置くが、私は変な欲情を抱いてモデルの彼女を見ていたのではなく、生身の彼女をあるがままに写し取りたいと欲したのである。
 生身の彼女の肉体に付いているものをすべて描こうとしないで、どうして彼女を描ききることが出来よう。
 そこに他の世俗的なものが入ってくる余地はないのだ。
 だが、私はそこで、生身の自分の一部を隠そうとする彼女の内面こそ、私が最も描きたいものだということに、彼女から気付かされた。
 外側の、表面的なものをどんなに描いたところで、むなしい。重要なのは何をそこから感じるかということだ。
 画家の心ないし魂といったものが、それを見る人間に伝わることである。
 休憩時間、廊下に出る入り口のところで彼女は裸身に布を巻き付け、タバコを口に運びながら他の絵描き連中と可愛らしい声で談笑しているのが、部屋の中央にイーゼルを立て、陣取っている私のところからも見えた。
 私はまだこのアトリエに来る絵の仲間たちと親しくはなっていなかったことや、絵の外の現実の彼女に触れることは絵の中の彼女のイマージュを壊すような気もして、あえて彼らと一緒に彼女との談笑に加わる気持ちが起こらなかった。
 そのあとの休憩時間では、他の連中が廊下でタバコをふかしている間、部屋は私と彼女だけになった。
 彼女は、長い間ポーズをとり続けるために固まってしまったカラダを解きほぐすように、
 私の前でカラダを伸ばして柔軟体操を始めた。
 モデルという仕事も大変なのだと同情した。
 彼女に対する親近感が私の心に湧き起こった。
 その夜、彼女の清らかな裸身への切ないような思慕が、私の無意識の心を占有した。
 私の心は後から後からさざ波が起こって来て落ち着かず、いつまでも寝につけなかった。
 毒でも飲んだみたいに胸が痛くなった。
 私はあえて眠ろうと努めることはやめて、最近購入した文庫本を開いた。
 それはシレジウスというヨーロッパのバロック期の宗教詩人の本である。
 その中で私はこの言葉を見つけた。
 不思議とその言葉はその時の私の心に合って、心の隅々にまで響き渡った。
 ――神の愛によって痛みを感じない心は不健康である――
 私の胸に感じられるこの痛みは、神の愛を感じ取っているからであろうか。
 神の愛を感じるとき、またそれとは知らずに神の愛の中にあるとき、私は自分自身の不健全さに気づいて、心の痛み、ないしは魂の疼きを感じているのだろうか。
 その一方において、彼女はまったく汚れのない絵のモデルとして、あまたの絵描きたちにインスピレーションを与え続けるために、この世に生まれてきたように思えた。
 芸術のためとはいえ、自分の裸身を惜しげもなく人前でさらすという仕事にもかかわらず薄暗いところもなく、
むしろ何処にでもいる可憐で普通の感じの、女らしい優しさのある人だということを、彼女を描き続けた一週間の間、度々思い返していた。
 一週間の半ばのある日の休み時間のことだ。
 無邪気に絵の仲間たちと歓談していたかと思うと、自分が飲んだ茶碗を自分で洗おうとしていた。
 アトリエの人が制して、やっとやめるといった感じである。
 また、差し入れがあって、色とりどりのお菓子をアトリエの人が運んできた時、まずモデルさんから選んで下さいと言うのに、彼女は無邪気に「ああ、どうしよう。どれを選んだらいいか困っちゃう」と笑い、「ほかの人から選んで下さい。最後に残ったのでいいです」と愛らしい声を弾ませて控えめなのだ。
 ポーズをとっていた時とは打って変わって、休憩時間での彼女の表情は実に豊かだ。
 休憩が入るたびに彼女は、次第にこのアトリエの雰囲気に馴染んできているのが感じ取られた。
 はじめて行く親戚の家に最初のうちは慣れず、おとなしくしていた子が、次第に家の人たちに慣れ親しみ、家の子供たちとも仲良しになるのを想い起こさせる。
 そして、いざポーズに入る時は、前よりもいくらか目元におだやかさが出てきて、ゆったりとした感じを持つようになる。
 それとともに、いっそう仕事に徹しようと真っ直ぐ前を向いて、健気に自分の仕事を果たそうとしている様が窺えた。
 この謙虚さが大切なのだ、と私は思った。
 私は彼女が、全くの天使のように思えた。
 こういう女性とかりそめでもいい、付き合ってみたいと思った。

   *

 私は一週間、毎日アトリエに通い続けたが、彼女の方から私の方に来ることはなかった。
 ある時は、休憩時間に彼女の方から彼女を描いている絵を覗き込んで回っていたが、私のところにだけ立ち寄らなかった。
 私と直接関わることを故意に避けているといったように。
 それではっきりした。
 彼女はきっとポーズをとっているとき、自分と真正面に向き合っている私を意識しているのだ。
 だからこそ、私のところには来なかった。他の絵描き連中の中に自分を置こうとしたのではないか。
 布をまとった彼女は、裸身の時よりもいっそう裸身だったのではないか。
 彼女は大概、私が準備をしている最中に、挨拶もなしで部屋に飛び込んできてカーテンの裏に隠れ、
 私がカンバスに向かわないうちに台の上に乗って、もうポーズをとっている。
 あたかも私にモデルではない素のままの自分を見られたくないかのように。
 私は少しでも彼女を描きたいばかりに、会社が終わると急いでアトリエに向かうが、
 いつも彼女の方が早くて、私は彼女がこのアトリエに来て、この部屋に入るところを見たことがなかったのだ。
 そのことに気が付いた私は、今度は絵のモデルになる前の素のままの彼女を知りたいと思った。
 彼女を描いて四日目。
 私の絵は一つの曲がり角に差し掛かっていた。
 先生の手が伸びて、私の描いた絵の上に大胆にも木炭でタテとヨコの線を入れて、検討すべき箇所をアドバイスを受けた。
 私の絵には明確な尺度というものがなかった。
 私はそのとき自分が絵を描くことの意味を問おうと思った。
 そして、先生が付けた木炭のあとは塗りつぶさずに、あえてそのまま残しておこうと決めた。
 「下半身はいい。けれど上半身が足りない」
 「はい。そうですね」
 私の目が下から上の方を見て描いていたので、奇妙な遠近法が絵の中に生まれてしまったのか。
 ここまできて今更構図を直すわけにもいかない。
 もっとも写実的でないといけないということではない。
 ただ、写実ということはものを正しく把握するための基本ということなのだ。
 「薄塗りしてゆく方法をとっているのかね」
 「いろいろやって、どれが自分にとっていい方法かを探しているところです。たまたまこのやり方をしたら、いいなあと思って」
 「これでやってゆくといい」と、先生。
 そのあと先生は、私の隣で紙に木炭でデッサンをしている眼鏡を掛けた太った男のところで、
 「これじゃあ、ただ乗るだけだよ。食いつきが足りない。いつも眠っているんじゃないか」
 「ええ、車を運転している時も眠っている時があります」
 「そりゃ、怖いなあ」
 そばで聞いていた私も、そりゃ、怖いと思った。
 私はこのアトリエに来て初めて、ここに集う人間に関心を抱いた。
 その帰り、二階から下に下りてゆくと一階のデッサン室の前で、私は声を掛けられた。
 事務のおばさんと、私と同輩くらいの頭を短く刈った一見体育会系風のカラダのがっちりした男で、
 「どちらに帰られるんですか」と彼が訊くので私が最寄りの駅を言うと、
 「じゃあ、途中まで同じですね。一緒に帰りませんか」
 私はすぐに承諾して、彼らとアトリエを出た。
 「疲れませんか」と彼は訊いた。
 私は気持ちが充実しているから疲れを感じないと、率直に答えると、
 彼は自分が建設関係で働いていることを話した。
 昼間肉体を酷使したあと、夜アトリエで絵に没頭することの大変さを、
 私は自分自身のことと重ね合わせて思った。
 昼間の学生とは異なり、夜の部の学生はみな仕事を持ちながら絵の修養に励んでいるのだ。
 「気力で持っているんですよ、なんとか」と彼は答える。
 芸術というのは日常のいろいろなカセから、心とか魂を解放してくれるものだと、あらためて思った。
 事務のおばさんが、「もう慣れましたか」と訊いてきた。
 「ええ、まあ」
 「先生からいろいろ言われたでしょ」
 「ええ、いろいろと」と、笑いながら私が答えると、
 「昨日のはムク先生だった」と言うので、「今日の先生は」とすかさず訊ねると、「クメ先生」と教えられた。
 「クメ先生には猛烈にやられるからね」と、いい忠告。
 私はやっと自分がこのアトリエの一員になれた気がした。
 アトリエに来るようになってから、すでに二週間目の半ばにさしかかっているものの、
 私がここに集う人から声を掛けられるというのは、この時が初めてだった。
 きっとよそ者がここに集う人たちから仲間として認知されるには、
 ある一定の期間が必要なのかもしれない。
 アトリエに集う人たちに、自分が受け入れてもらえられたのを感じて、嬉しかった。
 もっとも芸術家の魂というのは孤独なものなのだ、とも思う。
 だからこそ、ときにはお互いに声を掛け合うことが必要になるのかもしれないとも、また思う。
 そのうち、前を行く二人に追いついた。
 前の二人が、追いついたわれわれに笑いながら話しかけてくる。
 私に、「なるだけ長く続けるといいですよ。間が開いてしまうと来づらくなてしまうから。あの雰囲気、分かるでしょ。なかなか入ってきづらい」
 「なるだけ来ようと思っています。でも、今のところは残業もあまりなくていいが、これから残業が多くなってくると、なかなか来れなくなる」
 それから、私は先生から注意されていた例の彼について訊いた。
 あの太った彼は今頃先生といるらしいとのこと。
 「あのデブ、絵を描いているときでもよく居眠りをしていてね。ある時、ガクンッとなって、モデルさんからもみんなからも大笑いされたことがあるんだ」
 私はその光景を思い浮かべて、その時モデルはどんなリアクションをしたのだろうと想像した。
 その瞬間にモデルと絵描きとは、絵を介して意図的に作られた関係性から逸脱して、
 何ものの言説も入らない純粋で、現実のあるがままの我々の生の方へ入り込んだのではないだろうかと、考えた。
 それこそが私がこの数日間、モデルの彼女に対して求めていたものだったのではないだろうか。

  *

 アトリエに休むことなく通い続けて、彼女を描いてきた一週間の、今日が最終日だった。
 モデルが着替えるためのカーテンの外で、私がイーゼルを出そうとしているところへ、
 「今晩は」といきなりモデルの彼女が入ってきたのだ。
 私は初めて対面するように頭を下げて「今晩は」と挨拶の言葉を返した。
 その時私は、初めてモデルの彼女が衣服を身につけているところを見たのだ。
 いつも彼女は私がアトリエに到着して準備をしている間にいつの間にか来て、布一枚裸身にまとって私の前に立っていた。
 また彼女が着替え終わって帰る際もさっと帰ってしまって、ちらと背中を見るので精一杯だったことを思いだし、
今こうして普通に洋服をまとっている姿は普通の女性という感じがした。
 すると、私が彼女に対して抱いてきたのは、絵の中の遠い幻影だったという気がしてくる。
 あの裸身を惜しげもなくさらしていたからこそ、彼女はなんのけれんもなく私の絵に、純粋なインスピレーションを与えてくれたのだ。
 と同時に私の絵のモデルとしての彼女は、今日で終わってしまうのだとも思った。
 彼女は永遠に私の絵の中にだけ生き続けることになる。
 そして開始して間もなく、私はもうこれ以上、なにも付け加えるべきものは何もないと思った。
 少なくとも私の持てるものではここまでが精一杯だった。
 するとこの状況はなるべくしてなったというわけで、私はさわやかな気持ちに浸った。
 先生が来て、
 「このモデルはプロポーションがいいなあ」
 と言った。
 すると、私の横の例の太っちょが私の代わりに答えた。
 「はい、そうですね」
 「でも、そうねえ。もう少し太ってもいい。下半身はいいが、上半身をもう少し」
 それはもちろん、私の絵に対して言ったのだが、その時予想外のことが起こった。
 当のモデルもその会話を聞いていたのだ。
 ポーズを取ったまま彼女が口をきいた。
 「はい、あたしもそう思います」
 絵のモデルがポーズを取っている最中に口をきくというのは、通常あり得ないことなのだ。
 それは、絵を介してモデルと絵描きの関係で作られている世界から逸脱する行為であるから。
 だが、その逸脱行為こそ私が求めていたものだったのだ。
 彼女の真面目なところがこの一言からも感じ取られると思った。
 ここにこそ何ものにも囚われない、生身の本当の彼女があるのだ。
 そこにたどり着けないうちは、彼女はわれわれの願望が勝手に作り出す幻影でしかないだろう。
 休憩になって彼女が部屋の入り口でタバコを口に運んで、また絵の仲間たちに囲まれて談笑していた。
 彼女は絵の仲間にすっかり可愛がられていたのが分かった。
 でもこんなにもモデルと絵描きとは親しくしていいのだろうかと、心配していると、
 仲間の一人がしつこく、ここが終わったら自分の絵のモデルになってくれないかと言っているのが聞こえたかと思うと、例の太っちょの仕業と踏んでいるのだが、彼女が裸身に巻いていた布をめくった。
 「イヤーン!」と、彼女が甘ったるい声で叫んだ。
 私はなんていうことをするやつらだと思った。
 それとともに彼女を絵のためとはゆえ、あまりに理想化していた自分を揶揄してもいた。
 最後に彼女はわれわれ絵描きたち全員の前で「お疲れさまでした」と挨拶すると、衣服を身につけ終えるや脱兎のごとくわれわれから去っていったのだった。

                                         (終)