たどり着けないからだ | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 世界はない。そして自分もない。みな心が作り出したものである、というバークリの唯心論の後に来るのが、懐疑論者ヒュームです。

 彼は、さまざまな論を見て、それらがみな根拠がなく、また確実なものではないことを主張しました。

 われわれは、真理に到達することはできない。

 なぜなら、われわれの思考そのものが、経験によって作り出された仮定的なものであるということです。

 その仮定的な思考のもとに捉えられた事実というのは、客観的事実のように見えて、じつはそうではない。

 それは、主観的な事実を、客観的事実と誤認している。

 したがって、われわれは客観的な事実を正しく捉えることはできない、というわけです。

(古代ギリシアのゴルギアスもまた、懐疑論者としてこのようなことを言っています。)


 このことより、彼は、どんなに物事を合理的に理解しようとしても、それはわれわれの生自身が不可能にしているのであって、われわれは、ただ自身が生きられているものによって生きる以外にはない、とするのです。

 つまり、経験に基づくこと。これ以外にはない。物事を論理的に考えて行っても、それはますます物事の本質から遠ざかるだけである、と。

 ここに経験に基づいて思惟することの究極の形があるようです。


 もっとも、経験がすべて正しいか。むろん、大いに間違えます。

 しかし、多く間違っているとしても、それに基づいて生きるのが人間なのです。

 間違っていることを前提にする。このことこそが、重要だと、私は考えます。

 完全ではない人間どうしが互いに主張し合う中から、より正しいことを導き出せばいい。

 また一人一人が完全ではないのだから、たとえ間違っても、それをフォローするような仕組みを作り上げることこそが大事なのです。

 今日の民主主義もまた、こうしたものに基づいたものなのです。

 互いは間違うことの多い存在です。しかし、互いが一つになり、問題に取り組むとき、より正しいものが作り出されるのではないか。もちろん、そうやっても、間違うことはあります。これまでも、そうした事例は数え切れないほどあります。

 しかし、そこを基本にすること。それがより人類を進歩させることなのです。


 では、このことを次の詩に託しましょう。


「からだをもてるあなたは、
互いのからだであるものについて、けっして知ることはなく、

ただ互いのからだであるものが、

互いに、あらかじめ息づかれ合う事実を通して、
自身のより「強くあるもの」を生き、

耳をもてるあなたは、
互いの耳であるものについて、けっして知ることはなく、

ただ互いの耳であるものが、

互いに、高く導かれ、育まれ合う事実を通して、
自身のより「聡くあるもの」を生き、

脚をもてるあなたは、
互いの脚であるものについて、けっして知ることはなく、

ただ互いの脚であるものが、

互いに、限られなく創造され、在らされ合う事実を通して、
自身のより「とらわれなくあるもの」を生き、

肩をもてるあなたは、
互いの肩であるものについて、けっして知ることはなく、

ただ互いの肩であるものが、

互いに、深く満ち足らされ合う事実を通して、
自身のより「豊かくあるもの」を生き、

背をもてるあなたは、
互いの背であるものについて、けっして知ることはなく、

ただ互いの背であるものが、

互いに、堅く庇われ合う事実を通して、
自身のより「貴くあるもの」を生き、

肉身をもてるあなたは、
互いの肉身であるものについて、けっして知ることはなく、

ただ互いの肉身であるものが、

互いに、一に支え持たれ合う事実を通して、
自身のより「重くあるもの」を生き、

目をもてるあなたは、
互いの目であるものについて、けっして知ることはなく、

ただ互いの目であるものが、

互いに、あまねくおし拡げられ、味わわれ合う事実を通して、
自身のより「広くあるもの」を生きるのである。」