中世の聖フランチェスコが、神の被造物である世界を通して、創造主である唯一なる神を観た(観想した)のに対し、
世界の数多のもの自身が宿す、個別の神性を合理的に解き明かし、生きることの幸福を探求したのが、スピノザと言えるでしょう。
スピノザのこの思想は、汎神論と呼ばれます。
神という抽象的な存在ではなく、われわれがじかに触れる世界そのものが持つ、神的な意味、すなわち神性を解き明かすこと。
それは、現代に生きるわれわれに、とてもなじみやすい考え方でしょう。
神そのものではないが、神的なもの。それは、実質的にわれわれの生に直結している事柄です。
神そのものではなく、この神的なものを探究することは、唯物論につながるものでもあります。それがゆえ、この哲学者を指して、「神に酔える無神論者」という言い方がされてきました。
じっさい、神を信じるか、信じていないか、ということは、この哲学においては意味をなさないことかもしれません。
重要なことは、神的なことであって、神そのものではないのです。
神的というのは、われわれが自身を超えて自身を生きる力を認める、ということです。
スピノザは、神を信じようと信じまいとかかわりなく、誰もが神的なものを持っていて、それに基づいて生きるものであることを明らかにしようとするのです。
幸福とは、神的なものに基づいて、生きることである、ということなのです。
ところで、この思想は、われわれに新たな信仰をもたらしました。
それは、唯一なる神にかわる、多様なる神です。
すなわち近代文明という神です。
われわれはみな近代文明の恩恵の下で生きています。
自由と民主主義、人権の思想は、近代に入って、われわれが手に入れた神であり、
またこの二百年の間に成し遂げられてきた産業の革新は、われわれをそっくり、人類進歩思想の信者に変えたのでした。
しかし、それは同時に、人類の傲慢さが露呈された世紀でもあります。
同胞によっておびただしい人間が流され、ついには一発で何万にもの人間を殺戮することが可能な核爆弾を持つようになったのです。
われわれが持つ傲慢さは果てしがないかのようです。
いつかは人類そのものを滅ぼすことになるでしょう。
これらが、われわれの本来の生き方ではないことは明らかです。
貴方が生きられている世界の神性とは、貴方一人のものではむろんなく、貴方の隣人とともに生きられているものであるはずです。
それは、人類共同体の思想。
ともに生き合われることにこそ、貴方が生きられる本当の神性があるのです。
それは、私が、ルネサンス以降の哲学思想、宗教を述べるに先立って14回にわたって行なった「貴方と、貴方の同胞についての神学」で示したものです。