
職場から車でちょっと行ったところの神社の
アヤメ
和菓子屋で働いていた時
アヤメ と 燕子花 と 花菖蒲
それぞれの作りや色彩の違いを飾り菓子で出さないといけなくて
尾形光琳の 燕子花図屏風 を見て勉強した記憶が
尾形光琳はデフォルメ化した日本の花を描くのが有名で
光琳梅 という 紅白梅図屏風の梅のデザインも有名
生菓子とかでも 菓子のタイトルが光琳梅 とか 光琳菊 とかある
私はアヤメも燕子花も花菖蒲も
和菓子の飾り菓子で作ったけど
本に載ってた燕子花の生菓子が
黒いアンコを包んでいたので それを真似して作ったら
「燕子花の中心は黒じゃない。黄色じゃ」
と怒られた事が。
和菓子の世界の造形は
尾形光琳のように デフォルメされたものが多い
洋菓子のようにデコレーションしていく
足し算じゃなくて
必要最小限の表現で植物や古風景を削ぎ落とし
作りの構造をデフォルメして再構築する
という、引き算
さて、前置きはこのくらいにして
私のクラシック音楽一人旅 20世紀編も
前回で主に 新古典主義~その崩壊へと向かう流れまで
来ていました
崩壊と言っても
先ほど述べた 和菓子の話のように
一度必要最小限までバラして
再構築していく流れなのですが
主に 新ウィーン楽派による 調性の崩壊
それが起きて以降の流れから追っていきます
今回も 旅のナビゲーターはChatGPT
お薦めされた順番に沿って 感想を言いたいと思います
音楽は本来 ◯◯のようだ とか
和菓子で言うと初春の寒椿に雪が降り積もっているようだ
みたいな
何か美しいものとか 感じた感情を表したものでした
しかし 新ウィーン楽派の一人
ヴェーベルンが作曲した「管弦楽のための5つの小品」
この曲も 表現を必要最小限まで削ぎ落としたものですが
まだ12音技法に至ってはいないものの無調的配置
音を点描に近いくらいデフォルメしたもので
もはや 何を描いているか 対象のイメージが連想されません
例えば ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」は
標題が月光として書かれた曲ではないのに
ある音楽評論家が
月光に照らされた湖上の揺らめき だとかいう
比喩が有名となり 通称「月光」となった
聴いてみれば 何故そういう感想が浮かんだかは
よく分かる
しかし、ヴェーベルンのこの曲は
対象を比喩として表現するなら
実在する現象や対象ではなく
響き や 輝き 色彩が 点や線で並べられている
といった 印象しか 思い浮かばない
音のメロディーや進行が機能的和声で出来ておらず、
具体的な比喩が出来ないのだ
音を聴いても 意味や感情などが浮かんでこない
そういう音楽が生まれた
構造を突き詰めた作曲家に
ブーレーズ という人がいる
「構造」というタイトルの曲があり
2台のピアノ連弾でやはり12音技法が駆使されていて、
さらにリズムやアクセントまでもがセリーに組み込まれているという
極端なくらい 音の配置にこだわった「純構造」
主観もロマンも意味も感情すら消し去ろうとしているそうです
描いているのは対象ではなく構造や運動そのもの
他の作品でも「ル・マルトー・サン・メートル」という曲
やはり感情を表現するのをやめて、
音の高さもリズムも音色も強弱も配置も
統合的に構造体にしたみたいな
音楽を鑑賞するというより、
音響構造体を観察する聴き方になっていました。
ここまで 構造重視の音楽の流れが来ている時代に
作曲者を知らずに聴いたら 19世紀音楽にすら聴こえそうな
そういう古典的な調性音楽の交響曲を作り続けた作曲家がいました
スターリン政権のソ連時代の作曲家、ショスタコービチです
交響曲5番が有名
続けて 8番 10番 と聴きました
構造は調性のあるれっきとした交響曲
しかし 要所に人間的な苦悩や葛藤らしき音が
入り乱れています
肝心なのが、
これらの交響曲が 時代的には
既に 調性が崩壊した後の音楽だということ
後にショスタコービチはアメリカに亡命し
本当に作りたかった音を書いていきますが、
私が聴いた 5番 8番 10番 は
プロパガンダに支配されていた時代の音楽で
表現の自由を剥奪されていた時の曲
本当は多分 もっと前衛的な音が書きたかったのかも
ただ、そのような状況で生まれたショスタコービチの音楽は
構造は強要された調性音楽、しかし内容は人間的という
独自の表現で曲を書いたのでしょう
少なくとも 構造から意味や感情を排除した音楽とは別物
10番には ショスタコービチの名前でモチーフが作られており
DSCHという、ショスタコービチの名前を
音名 D Es C Hという音型で使用されています
これが時には朗唱のように 時にはクライマックスで
花開いていく音楽になっている
つまり外側は古典で形式的、内側は不安や精神崩壊みたいに
単なる調性回帰ではなく
ChatGPT 曰く 戦争、国家、暴力、機械化、集団、恐怖、皮肉、沈黙
そういった内面が20世紀的な形で埋め込まれている
といった 二重構造になっているそうです
次に聴いたのが
メシアン「トゥーランガリラ交響曲」
12音技法や複調、印象派的色彩を使いつつ、
しかしリズムが楽器によって全然別のメロディーが
同時に鳴っている(特にピアノと他の楽器
ピアノがエネルギー放出的)
テンポが進んでいるのに拍が消滅しているような錯覚が起こり
時間が停止しているような聴こえ方がしてきました
計算されての構造でしょうが、
ドビュッシーほど曖昧ではなく、
ブーレーズやヴェーベルンほど無機質ではない印象
ChatGPT の捕捉によると
重要なのは
メシアンは 音楽を時間の流れとしてではなく、
永遠や陶酔状態として扱おうとした点だそうです
普通の西洋音楽は
拍節 緊張→解決 推進力 フレーズの方向性などにより
前進します
しかし メシアンは意図的にそれを停止
例えば
ピアノが暴走的運動
金管楽器が巨大な塊
弦楽器が官能的旋律
打楽器が別の時間軸
といったものを同時に進行させます
つまり全員が同じ時間を共有していない
時間が停止するという現象が起きます。
ブーレーズは メシアンの弟子らしいですが
師匠から構造を受け継ぎつつ
偶然性排除、徹底的制御、音列の純化へ向かった
メシアンは 高度に計算されているけれど
ステンドグラスのように色彩を結晶化し
恍惚、宗教性、官能、など人間的な息吹を描いているのかも
続いて聴いたのが
リゲティ「アトモスフェール」
メシアンとは別の経緯で 時間が停止します
拍が消滅します
実際には 無数の楽器声部が細かく動いています
小さく運動しているのですが
全体として聴くと 停止して聴こえます
ずっと長い音が続いていくような音響
林光の「原爆小景」という曲に
リゲティの影響が感じられます。
そして次に
クセナキス「メタスタシス」
作曲家であり兼 建築家 という異色の人物だそうですが、
クセが凄いです
音を線として扱い、直線やグリッサンドによる曲面
幾何学的 音の塊のような運動
クセナキスが自作した電子楽器があって
ボードに専用のペンで線や点を描くと
その運動の通りの音が出るという
建築家のル・コルビュジエの建築事務所でも働いていたそうで
発想が独特
チェロ曲の「ノモス・アルファ」は
音の造形がなんらかの幾何学的な運動で、
知らずに聴くと
チェロを初めて触った幼児が鳴らしているような感じ
前回 絵画におけるモンドリアンやカンディンスキーを
例に出しましたが
ブーレーズやリゲティはどことなく絵画におけるモンドリアン
を想起させられ、
クセナキスはカンディンスキーを連想させました
いずれの画家も抽象で
描くべき「対象」を排除した絵を残しています
この画家の絵を見て 想起しながら聴くと
結構イメージが合う気がします
さて、意味か構造か?
駆け足で聴いてきましたが
次回は
20世紀後半に移ります
「音楽とは何か?」という観念になっていくと思います
そしてロック・ミュージックへの接続へも聴いていきます。