週末は『エリザベート』のディレイ配信ざんまいで前楽と千秋楽を何度も観ていました。(家族が留守だったので、大音響で!)
なぜか今は私の心に寄り添ってくる『エリザベート』。
はじめて観たのは10年以上前。正確には覚えていませんが、観ようかなぁ・・・とふらりと梅田芸術劇場に立ち寄ったら、フツーにチケットが買えて観られちゃった・・・みたいな感じでした。
(お財布事情でA席希望だったのに、2階1列センターがあったので奮発したのはしっかり覚えています)
90年代の終わり頃に「エリザベート、エリザベート・・・」と海外も含めてあっちこっちに遠征する知り合いがいたので、そんな素晴らしい作品なの?と思っていましたが(ネット友、男性でどこでもマラソンシューズを持参するストイックなイメージな人でした)実際観劇した私は「この作品のどこに魅力があるのか」さっぱりわからず、エリザベートってただのわがままな女性じゃない?と思っていたものです。
楽曲のインパクトはすごかったですけどね。
その後、宝塚では花組さんで明日海りおさん&蘭乃はなさんコンビ、宙組は朝夏まなとさん&実咲凜音さんコンビ、月組の珠城りょうさん&愛希れいかさんコンビを観ました。
宝塚版は豪華さでは息を呑むようなシーンもあり(一幕ラスト最高!)、それぞれのコンビなりの『エリザ』の世界はあったものの、やっぱりエリザベートって???感は払拭されず。
(私的な好みでいえば朝夏トートが好きでした、黄泉の帝王なのに暖かさを感じて・・・)
今、振り返って思うに、そのころの私は心で感じ取るには人間的に未熟だったのかもしれません。
エリザベートはどんな苦難があっても常に前を向いて生きていた!
これこそがすごいことと今は胸にジーーンときます。
「夜のボート」もしみじみ。
夫婦なんて所詮他人ですから、いつも同じ方向を向いていられるかといえば、NOだと思う。
でもつかず離れず、なんとか同じ方向に舵をとろうと努力できたなら、エリザベートとフランツも理解しあえたかも?
以前、小池修一郎先生が『エリザ』について、ヨーロッパと日本では「死」というものの捉え方が違うと語っていらっしゃいましたが、宗教が違うのはもとより、教会通うのが日常である欧米と違い日本って宗教は特別な時にしか存在しないのが一般的。(もちろんそうでない方もいらっしゃいますが)
それでも「死」は「生」と隣あわせのように存在するし、人はどこかに心の闇を持っていて、ふらりとあらぬ方向へひっぱられそうになることってあるんじゃないかな?
ある時、そんなことを考えていてエリザベートにとってのトートは、私が感じたところの心の闇に似ているのかもしれないと思いました。
確かにエリザベートは甘かった!
大国の王子様にみそめられて、いわばシンデレラ!
国家に対する義務があるのだと言われても、それくらい大したことじゃないと考えた。
だって・・・まだ若かったんだものね。
でも飛び込んだ世界に窒息しそうになり、私のために私は生きていくのだ!と気を奮い立たせて前を向いて歩んでいく。
(大国の王子様にみそめられて・・・は別にしても)、人は誰でも多かれ少なかれ困難を抱えながら、それでも困難と戦い、乗り越えながら毎日を生きている!
それってすごいことなんだよ!みたいな人間に対するエールのようなものを、この作品に感じるようになりました。
ちゃぴ(愛希れいかさん)のエリザも魅力的でした。
花總まりさんは(体力的な問題か高音を伸ばしてキープするところが辛そうにみえたけど)やはりレジェンド! 皇妃そのもののような立ち居振る舞いの美しさ、ちょっとした表情に高貴なプライドがあり、フィナーレでは花總まりとしての素顔と無事に大千秋楽を迎えたことへの安堵をみせながら、女優・花總まりの存在感がありました。
以前『徹子の部屋』出演時に舞台以外に楽しみはなく、家へかえったら次に備えてひたすら眠っていると語っていらっしゃいました。
そして当時もボイストレーニングで地声の音域を広げる訓練もされていたようでした。
舞台にすべてをかけて生きている花總まりさんも、何があっても前を向いて生きている『エリザベート』の一人なんだと思います。