国民的な人気の出るものを作るのって難しい。
マッキーが作った「世界にひとつだけの花」も、長い音楽人生でたった1度だけ「降りてきた」ものだという。

「君の名は。」だって、PPAPだって、それぞれこだわりを持って作っていたにせよ、それを越えるようなきっかけや響きがあって人気になった。
ジブリはただひたすら細部に至るまでこだわりを貫くことによって必ず受け入れられるという駿先生の強い信念があって、アニメに詳しくない人がそこまで神経を使っていると気づかなくても、「なんかよい」と感じることができた。

もちろん、秋元康のように、何度も狙って当ててきた百戦錬磨の人もいるけれど。

 

人気のあるものは、人気が出て初めて人気の理由が語られる。

それまでは今手元にあるものがどうしたら受け入れてもらえるのか、明確かつ確実な方法は作り手にはあまり見えていないように思う。

 

国民的な人気というのは小手先でどうにかなるものではなくて、見えないところで積み重ねてきたものが、時代の変化やふとしたきっかけで多くの人の心に眠っているものと共鳴したときに獲得できるのだと、なんとなく思ってる。それまでは地道になにかを積み重ねるしかないんだよ。積み重ねたって得られないのが普通なんだから、積み重ね続けるしかない。

この前取り上げた記事にも、「国民的な曲を期待」とか「みんなが口ずさめる歌を」というのがあって、(私も含め)反応している人がいたけど……うん、そう思うのは自由だと思うんだけど、たくさんの例にあるように「国民的」になることは単なる「結果」であって、「国民的」になること自体を目的に何かをするのは「結婚をゴールにしてしまうこと」くらいずれてる気がするんだよね。「ポスト○○」とか「国民的」とか、ぜんぶそれありきで、なぜその位置に押し上げなければいけないのか、という説明をすっ飛ばしてしまっている。だから、ファンの中には国民的にならなくて結構、と思ってしまう人が出てくる。多くの人が感じた違和感は、おそらくこのあたりなんじゃないかな、違ったらごめんだけど。

 

かといって、「国民的じゃなくて結構」というのも、ファンとして言いたくないなと思う。

ファンの中でずっと彼らを守り続けていればいいとは、思わないんだよね。人気が出たりそれが何年も続くとふと寂しくなる気持ちも分かるけど、それくらい魅力のある人をファンの中にとどめておくことで、その人に見せられるはずの景色もチャンスも、無意識に遠ざけてしまうんだよね。そういう紅白歌手を、私は知ってる。

もちろん無理に引っ張り上げる必要もないけど、ファンとしてはやっぱり1人でも多くの人に彼らのすばらしさを知って欲しいじゃない、世の中に受け入れてもらえる可能性があるなら。それが自分の誇りにもつながっていくわけだし。

 

国民的になるのは曲だったり人だったりだけど、国民的になるきっかけってリスナーでありファンでありオタクでありスタッフであり本人なんだよねきっと。どれか一つじゃない。だから、どれか一つのお蔭でもない。

 

今の時代、自分が100万分の1だとしても、

そこから拡散力のある何かにつながる可能性がある訳で。

 

私は主にファンの人たち向けにこのブログを書いてきたので、新規さんの中には何を言ってるのか全然分からないこともあるかもしれない。でも「国民的じゃなくて結構」「分からなくて結構」なんて突っぱねるつもりはないし、むしろ嵐だけにのめり込むのではなく、嵐を理解しながらもどこか俯瞰する視点に立ってみたり、他を理解する目や耳を養うことが、ファンとしての品格につながるんじゃないかと思ってやっているつもり。

 

籠の中に閉じ込めて飼い殺すことのないように、「他」という意識を忘れないでいたいと思う。