「君が笑えるように」とタイトルに書きましたが、今日はこの曲のレビューではありません。
2週間経ったあのことについて、
何十回と書き直した、
私の心のありったけを、
下書きフォルダで古くなる前に、
ようやくちゃんと表に出そうという気持ちになりました。
落ち着いたと思ったら、また新しいことが出てきて、
グレーを黒に変えたがるファンばかりが目立って、他人事のように嘲笑するファンがいて、
事実云々よりも、ファンって何なんだろうなってすごく考えさせられる2週間でした。
擁護する内容、批判する内容の如何を問わず、こういう内容は100人いたら、
100人それぞれが「自分はどう思うのか」と、ぐるぐる考えてしまうと思うんです。
中には、もう考えたくないと思う方もたくさんいると思います。
いろいろ出回っているものたちの真偽は、この場で触れる権利など私にはないと思っています。
ここでは、それらの内容には一切触れません(触れる必要がない)ので、そこだけはどうか安心してください。
私がこれからもさとしを応援することは変わらない。
今回の件で、変わる要素がない。ということを回りくどくつらつら書こうと思います。
また、私は今回のことで大野智がより一層愛おしくなってしまい、
今のところ「さとし」と呼ばずにはいられなくなってますのでアシカラズ。
恥ずかしくなったらぬるっと変えます(笑)
と、前置きはここまで。
この2週間、Twitterでみんなが言いたい放題やっている中で、
私は彼の何が好きで、サトシックなのかなって、改めて考えました。
伸びやかな優しい歌声、
キレッキレのダンス、
モノ作りの独特なセンス、
謎だらけの運動神経。
たまに見せる芯の強さと優しさ。
そんでもって、テキトーに生きてますよ、って笑い飛ばす明るさ。
猫みたいに気ままで、ほわっとしてて、
粘土にはまりすぎて爪を真っ黒にしたままテレビに出たり、
寝ずに絵を描いていたり。
そういう、好きなものを極めたくなる、職人肌なところ。
こげぱんになって怒られてるのを観て、ばっかだなぁーって笑い飛ばせるくらい愛おしい。
他にも細かいものをあげたらキリがないな。
人それぞれ好きなポイントはあれど、
多くの人がテレビやステージを通して感じてることって、
そんなに大きくは変わらないんじゃないかと思う。
いいところ悪いところ、何年も見ていればたくさんある。
正直、常にキラキラした「アイドル」というには程遠い。自分からのアピールなんてしない。
だから、遠くで暮らしてる、自慢の、ちょっと変わった友達や甥っ子や息子のよう。
そんな感覚で彼を見つめてきた人は特に、
今回の世の中の動きも、とっても辛く感じたんじゃないかと思う。
さとしは、辛いことがあったら、誰にも言わず、自分の中で消化する。
海外に放浪したくなっちゃったことだってある。
そもそも、最初だって辞める気満々だった。
そんなエピソードがありながら、結果16年嵐でいてくれてるんだよね。
そこが他のアイドルとの大きな違い。
そんな過去の上に立っている友達、甥っ子、息子が意図せずああいうことになったら、
私なら、寄り添って背中でもさすってあげたくなるよ。
相手が自分の大好きな芸能人だろうが、友達だろうが、それは一緒じゃない?…と私は思ってる。
脇が甘いだの、相手がどうだの、事務所は何してるだの、ファンを食い物にしただの、図太い神経だの。
事実と憶測がごっちゃごちゃの中で、よくもまあいろんな暴言を言えたもんだなと思ったのが正直なところだけど、
それは私がそこだけを切り取った感想であって、もう過去だとも思う。最初は整理がつかないし、ここまできたらもう仕方ないよね。
「ファンとはこういうもの」という形は、あってないようなもの。
みんなそれぞれがそれぞれの常識と照らし合わせて「こうだ」信じ込んでいるだけで、
実際は、勝手に好きになって、勝手にずっと着いていくと言って、勝手にこうしてほしいって言って、
いずれ変化が訪れて歯車がずれた時には静かに去っていく。
自分はずっと見ていきたいといくら思っていても、構造的には、私たちは永遠に「不確実な存在」なの。
その、「不確実な存在」に向けて、彼らは全身全霊かけてライブを作ってきているのだよ。
そこに、大きな嘘や裏切りを感じたかというと、私はそんなに感じてこなかった。
あれこれ感じてた人ほど、いっぱい毒が出ちゃったのかもしれないね。
今、みんなが知ってることのざっくり8割くらいは、ファンが穿り回したこと。
その行為が恥だよね。週刊誌の方が名前を伏せてたり、よっぽど節度を持ってるよ。
事実如何よりも、ググって人様のSNSの魚拓を拡散して、自分の傷口に塩を塗って、
140字という限られた世界で言い合う不毛さ、倫理観のなさに早く気づいて学んでほしい。
さとしを庇うことは、盲目的と言われるかもしれないけど、
でも、さとしのためにさとしをネット上で批判することが理性的な判断だとも思わない。
私たちは「不確実な存在」だから。よっぽどでもないと、受け入れる気にはならない。
結果、雰囲気が悪くなるだけで、さとしのためにもならない。
むしろ、足を引っ張りたい人にとっての「蜜」になる。
事実だろうがなかろうが、これ以上、掘っても掘っても、私たちには確認のしようがないのだよ。
それに、真実が見る角度によって違うことは「魔王」でとっくに勉強済みでしょう。
このくらいで、私の愛しさは揺らぎませんよ。
だって、今まで抱いてきた「さとしの好きなところ」に一個だって影響ある?
ないよ。皆無。
むしろ今回のことで、母親レベルの愛情が湧いてそこらじゅうに溢れてるよ。
このことで、かえってさとしの感性がダメージ受けないかな、と心配になるくらい。
多くの人が、自分の豊かな想像力に、
多くの主観と、普通はこうという勝手なイメージをはめ込んでいるだけ。
そこには、さとしがいない。
本人の意志なしに、普通はこう、を一個人に当てはめることほど雑なことはないのだよ。
もし、今回のことで、彼が「大切なもの」を選ばなくてはいけなくなったのだとしたら。
万が一にも、選んだ先が「引退」という二文字だったとしたら。
もう、誰も口出しすることはできないのだよ。
どんなに批判するファンでも、こればかりは求めていないでしょう。
これからも「嵐の大野智」でいてほしいから、
こんな時こそ、さとしにもっと素敵な景色を見せてあげたいなと、私は思います。
この先、さとしが大切な存在を一人選ぶその日まで、いや、できるならその後も、
距離が離れたり近付いたりすることはあれど、見守っていたいなと思います。
彼に求めるものが人それぞれ違うから、
私とは違う立場の方もたくさんいらっしゃることでしょう。
それを否定する気は全くありません。
私は、誰がどんな意見であろうが、私が好きな大野智をこれまで通り応援するだけです。
この記事も、同じ思いの人が少しスッキリできるのであれば、それでいいです。
最後に。
私は、さとしの会見のコメントを知って、
これが、彼の選んだ道なのだなと受け取りました。
全ての事には意味があると信じている。
なので、この曲のように、前に進んでほしいと思います。
「君が笑えるように」。
追記 2015.10.5
「違う立場」と書きましたが、人間の成長過程で見るとなんてことないなと思ったので追記。
教育心理学で学んだことを一つ。
子どもが大人になるまでに、反抗期ってありますよね。
その時期以外にも、親が何もしてくれないことに対して子どもが泣いたり怒ったり…。
子育てしている方なら毎日のように直面する方もいらっしゃるのではないかと。
それって、親に対する「大きな依存心」あってこその行為なんですよね。
子どもは、なんでもしてくれるはずの親に対する不満を、親に八つ当たりします。
あまり理屈をこねることができないので、怒ることで、「やって!」っていう意思表示をするわけです。
でも、それを続けるうちに、心のどこかで「これではいけないな」と思うようになり、
どうしたらやれるようになるのかという解決の術を、時間をかけながら徐々に身に付けていきます。
その、「身に付けていくこと」の中には、「相手の立場で考える」ということも含まれます。
さて、ここからです。
サトシックみんなの中に「さとし」という心の支えがあるのだとしたら。
今回のような不満は、さとしに対する「大きな依存心」からくるものだと。
ネット上であれこれ言う人を「子どもっぽい」とか馬鹿にしたいわけのではないの。
さっきのたとえは、男女関係だって友人関係だって、仕事だって、「頼る」という行為がある限り、ありうることだから。
さとしが心の支えになることは、とても素敵なこと。素敵な人だからね。
だけど、心の支えになっているはずの人への不満を、直接は言えないからネット上で吐き出して
訴えるのは、トータルバランスで見て、さとしに頼りすぎているというシグナルなのだと、私は思う。
Twitterが「荒れる」という現象は、あくまで「今」という切り口で見ているからけど、
「人の成長過程」という観点で見ると、「今」というステ―ジには、成長段階の違う人がいっぱい散らばってるのよね。
言うたら、荒れることは一生なくならないのだよ。
怒りや不満だけをネット上で吐き出す人に対してできることは、
冷静にその場で反論するか、静かに今後の成長を望むことしかない。
そういう意味で、Twitterを見て必要以上に傷つく必要はない。
Twitterは、世論とは言えないから。
そういうことを肝に銘じて、これからもTwitterをやっていこうと思いましたよ。
2週間経ったあのことについて、
何十回と書き直した、
私の心のありったけを、
下書きフォルダで古くなる前に、
ようやくちゃんと表に出そうという気持ちになりました。
落ち着いたと思ったら、また新しいことが出てきて、
グレーを黒に変えたがるファンばかりが目立って、他人事のように嘲笑するファンがいて、
事実云々よりも、ファンって何なんだろうなってすごく考えさせられる2週間でした。
擁護する内容、批判する内容の如何を問わず、こういう内容は100人いたら、
100人それぞれが「自分はどう思うのか」と、ぐるぐる考えてしまうと思うんです。
中には、もう考えたくないと思う方もたくさんいると思います。
いろいろ出回っているものたちの真偽は、この場で触れる権利など私にはないと思っています。
ここでは、それらの内容には一切触れません(触れる必要がない)ので、そこだけはどうか安心してください。
私がこれからもさとしを応援することは変わらない。
今回の件で、変わる要素がない。ということを回りくどくつらつら書こうと思います。
また、私は今回のことで大野智がより一層愛おしくなってしまい、
今のところ「さとし」と呼ばずにはいられなくなってますのでアシカラズ。
恥ずかしくなったらぬるっと変えます(笑)
と、前置きはここまで。
この2週間、Twitterでみんなが言いたい放題やっている中で、
私は彼の何が好きで、サトシックなのかなって、改めて考えました。
伸びやかな優しい歌声、
キレッキレのダンス、
モノ作りの独特なセンス、
謎だらけの運動神経。
たまに見せる芯の強さと優しさ。
そんでもって、テキトーに生きてますよ、って笑い飛ばす明るさ。
猫みたいに気ままで、ほわっとしてて、
粘土にはまりすぎて爪を真っ黒にしたままテレビに出たり、
寝ずに絵を描いていたり。
そういう、好きなものを極めたくなる、職人肌なところ。
こげぱんになって怒られてるのを観て、ばっかだなぁーって笑い飛ばせるくらい愛おしい。
他にも細かいものをあげたらキリがないな。
人それぞれ好きなポイントはあれど、
多くの人がテレビやステージを通して感じてることって、
そんなに大きくは変わらないんじゃないかと思う。
いいところ悪いところ、何年も見ていればたくさんある。
正直、常にキラキラした「アイドル」というには程遠い。自分からのアピールなんてしない。
だから、遠くで暮らしてる、自慢の、ちょっと変わった友達や甥っ子や息子のよう。
そんな感覚で彼を見つめてきた人は特に、
今回の世の中の動きも、とっても辛く感じたんじゃないかと思う。
さとしは、辛いことがあったら、誰にも言わず、自分の中で消化する。
海外に放浪したくなっちゃったことだってある。
そもそも、最初だって辞める気満々だった。
そんなエピソードがありながら、結果16年嵐でいてくれてるんだよね。
そこが他のアイドルとの大きな違い。
そんな過去の上に立っている友達、甥っ子、息子が意図せずああいうことになったら、
私なら、寄り添って背中でもさすってあげたくなるよ。
相手が自分の大好きな芸能人だろうが、友達だろうが、それは一緒じゃない?…と私は思ってる。
脇が甘いだの、相手がどうだの、事務所は何してるだの、ファンを食い物にしただの、図太い神経だの。
事実と憶測がごっちゃごちゃの中で、よくもまあいろんな暴言を言えたもんだなと思ったのが正直なところだけど、
それは私がそこだけを切り取った感想であって、もう過去だとも思う。最初は整理がつかないし、ここまできたらもう仕方ないよね。
「ファンとはこういうもの」という形は、あってないようなもの。
みんなそれぞれがそれぞれの常識と照らし合わせて「こうだ」信じ込んでいるだけで、
実際は、勝手に好きになって、勝手にずっと着いていくと言って、勝手にこうしてほしいって言って、
いずれ変化が訪れて歯車がずれた時には静かに去っていく。
自分はずっと見ていきたいといくら思っていても、構造的には、私たちは永遠に「不確実な存在」なの。
その、「不確実な存在」に向けて、彼らは全身全霊かけてライブを作ってきているのだよ。
そこに、大きな嘘や裏切りを感じたかというと、私はそんなに感じてこなかった。
あれこれ感じてた人ほど、いっぱい毒が出ちゃったのかもしれないね。
今、みんなが知ってることのざっくり8割くらいは、ファンが穿り回したこと。
その行為が恥だよね。週刊誌の方が名前を伏せてたり、よっぽど節度を持ってるよ。
事実如何よりも、ググって人様のSNSの魚拓を拡散して、自分の傷口に塩を塗って、
140字という限られた世界で言い合う不毛さ、倫理観のなさに早く気づいて学んでほしい。
さとしを庇うことは、盲目的と言われるかもしれないけど、
でも、さとしのためにさとしをネット上で批判することが理性的な判断だとも思わない。
私たちは「不確実な存在」だから。よっぽどでもないと、受け入れる気にはならない。
結果、雰囲気が悪くなるだけで、さとしのためにもならない。
むしろ、足を引っ張りたい人にとっての「蜜」になる。
事実だろうがなかろうが、これ以上、掘っても掘っても、私たちには確認のしようがないのだよ。
それに、真実が見る角度によって違うことは「魔王」でとっくに勉強済みでしょう。
このくらいで、私の愛しさは揺らぎませんよ。
だって、今まで抱いてきた「さとしの好きなところ」に一個だって影響ある?
ないよ。皆無。
むしろ今回のことで、母親レベルの愛情が湧いてそこらじゅうに溢れてるよ。
このことで、かえってさとしの感性がダメージ受けないかな、と心配になるくらい。
多くの人が、自分の豊かな想像力に、
多くの主観と、普通はこうという勝手なイメージをはめ込んでいるだけ。
そこには、さとしがいない。
本人の意志なしに、普通はこう、を一個人に当てはめることほど雑なことはないのだよ。
もし、今回のことで、彼が「大切なもの」を選ばなくてはいけなくなったのだとしたら。
万が一にも、選んだ先が「引退」という二文字だったとしたら。
もう、誰も口出しすることはできないのだよ。
どんなに批判するファンでも、こればかりは求めていないでしょう。
これからも「嵐の大野智」でいてほしいから、
こんな時こそ、さとしにもっと素敵な景色を見せてあげたいなと、私は思います。
この先、さとしが大切な存在を一人選ぶその日まで、いや、できるならその後も、
距離が離れたり近付いたりすることはあれど、見守っていたいなと思います。
彼に求めるものが人それぞれ違うから、
私とは違う立場の方もたくさんいらっしゃることでしょう。
それを否定する気は全くありません。
私は、誰がどんな意見であろうが、私が好きな大野智をこれまで通り応援するだけです。
この記事も、同じ思いの人が少しスッキリできるのであれば、それでいいです。
最後に。
私は、さとしの会見のコメントを知って、
これが、彼の選んだ道なのだなと受け取りました。
全ての事には意味があると信じている。
なので、この曲のように、前に進んでほしいと思います。
「君が笑えるように」。
追記 2015.10.5
「違う立場」と書きましたが、人間の成長過程で見るとなんてことないなと思ったので追記。
教育心理学で学んだことを一つ。
子どもが大人になるまでに、反抗期ってありますよね。
その時期以外にも、親が何もしてくれないことに対して子どもが泣いたり怒ったり…。
子育てしている方なら毎日のように直面する方もいらっしゃるのではないかと。
それって、親に対する「大きな依存心」あってこその行為なんですよね。
子どもは、なんでもしてくれるはずの親に対する不満を、親に八つ当たりします。
あまり理屈をこねることができないので、怒ることで、「やって!」っていう意思表示をするわけです。
でも、それを続けるうちに、心のどこかで「これではいけないな」と思うようになり、
どうしたらやれるようになるのかという解決の術を、時間をかけながら徐々に身に付けていきます。
その、「身に付けていくこと」の中には、「相手の立場で考える」ということも含まれます。
さて、ここからです。
サトシックみんなの中に「さとし」という心の支えがあるのだとしたら。
今回のような不満は、さとしに対する「大きな依存心」からくるものだと。
ネット上であれこれ言う人を「子どもっぽい」とか馬鹿にしたいわけのではないの。
さっきのたとえは、男女関係だって友人関係だって、仕事だって、「頼る」という行為がある限り、ありうることだから。
さとしが心の支えになることは、とても素敵なこと。素敵な人だからね。
だけど、心の支えになっているはずの人への不満を、直接は言えないからネット上で吐き出して
訴えるのは、トータルバランスで見て、さとしに頼りすぎているというシグナルなのだと、私は思う。
Twitterが「荒れる」という現象は、あくまで「今」という切り口で見ているからけど、
「人の成長過程」という観点で見ると、「今」というステ―ジには、成長段階の違う人がいっぱい散らばってるのよね。
言うたら、荒れることは一生なくならないのだよ。
怒りや不満だけをネット上で吐き出す人に対してできることは、
冷静にその場で反論するか、静かに今後の成長を望むことしかない。
そういう意味で、Twitterを見て必要以上に傷つく必要はない。
Twitterは、世論とは言えないから。
そういうことを肝に銘じて、これからもTwitterをやっていこうと思いましたよ。