皆さま、こんばんは。

県外の方は、テレビでやネットでご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、このたび私の住む熊本県が、震災により大きな打撃を受けました。



地震1日目の14日夜。自宅で夕食を終え、私はキッチンで、母は自室でいつもと変わらず過ごしていました。

熊本はこれまでも、時おり弱い地震が起こることはあったので、その日も21時半頃に少し揺れを感じた時は、いつもの事だと特に気にもしませんでした。

それが少し続いて、ちょっと長いな…とリビングへ身を乗り出した瞬間、壁にしがみ付かないと立っていられないような強い振動と、部屋中のガラス製品、食器、ランプが割れるひどい音と地響きがして、揺れが収まった頃には、部屋の中は破片と散乱した物でぐちゃぐちゃになっていました。


自室の母は、飼い猫と布団にくるまって何とか無傷。
いつも母が保険の仕事をする、事務スペースの1室は、2メートルの棚が机の上に倒れかかり、地震発生時にあの部屋にいたら、間違いなく大怪我を負っている有様でした。

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私の自室も、本棚は倒れ、タンスは引き出しと中の洋服が飛び出し、揺れた衝撃でクローゼットの中の物まで飛び出して、足の踏み場もありません。

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外に出ると、マンションの外壁が崩れ落ち、渡り廊下は分断されていました。

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幸い電気は点いたので、揺れが収まるのを待って、停電したという近所に住む姉の家へ、姉と1歳半になる甥っ子を迎えに。
帰り道に寄ったコンビニでは、人が溢れて、床は割れた酒瓶などが散乱していました。


その日の夜は、皆で被害の少なかった母の部屋に固まり過ごしましが、余震が続き眠ることも出来ず朝を迎えました。

寝不足のまま、昼過ぎに所用で家を出たら、目に入るものは今まで見たこともない、町中に広がる地割れや塀の崩れ。
中でもショックだったのは、実家にほど近い熊本城の、数十メートルにわたって崩壊した石垣と白壁でした。


無事に用事を済ませて家に戻り、まだ散らかったリビングで母と夕食。前日からの疲労で、気づいたら眠ってしまい、目が覚めたのは深夜0時過ぎ。それからお風呂に入って、リビングで地震のニュースを見ながら、ベランダで片付けをする母と話していたのが、16日の午前1時半の事でした。


そのとき私は、もう昨日のような地震は起こらないと、完全に油断をしていました。
少し揺れてるね…と、リビングへ戻ってきた母と顔を見合わせた瞬間、建物と家具が揺れ動くもの凄い音と一緒に、立っていることが出来ないほどの強い揺れを全身に感じました。

すぐ目の前にいる母を支えようと、必死に手を伸ばしましたが、まっすぐ立っていられず、数回壁に頭をぶつけて倒れました。母も家具にぶつかりながら床に倒れたので、そこに這っていって、近くにあった椅子で頭だけでも守ろうとしましたが、椅子を体に引きよせても、揺れで離れていく。

そうこうしているうちに、部屋中が停電して真っ暗に。揺れが少し収まったので、母と2人で手探りで壁を伝いながら、玄関横の母の寝室へ避難。前日全てのガラス製品が割れたお陰で、裸足で暗闇を歩いても足の裏を切らなかったのは救いでした。

寝室へ入って数分後、また強い揺れが。当時リビングにいた飼い猫は、1度は別の方向へ逃げたものの、母の部屋から大声で呼び続けたら、2度目の揺れでこちらの部屋へ走って逃げてきてくれました。
揺れの衝撃で開いたクローゼットに隠れていたのを捕まえて、暴れないよう洗濯ネットを被せていると、ネットとシーツに血の染みが。見ると私と猫、両方とも足を怪我していました。


大きな揺れが収まるのを待ってから、姉とラインで連絡を取り、最低限いる物を入れたバッグと猫を抱えて、母と2人で近くの小学校の体育館へ。
我が家はマンションの9階なので、非常階段を降りている時、またあの揺れが来たらと思うと足がすくみましたが、ゆっくりと気をつけながら地上階へたどり着きました。
外は夜中にも関わらず、たくさんの人が毛布やリュックを抱えながら、小学校のグラウンドや体育館へ集まっています。


幸い先に避難していた姉と甥っ子と、近所に住む友人たちが体育館に布団を運び込み、スペースを確保してくれていたため、そこに荷物を下ろし、まずは猫と自分の怪我の手当て。

それから辺りを見回してみると、体育館はぎゅうぎゅう詰で、みんな毛布や段ボールにくるまって床に寝ていました。
屋外に出ると、グラウンドにもたくさんのパイプ椅子が出され、そこに座って毛布にくるまる人や、後から後から避難してくる人の波、グラウンドへ入ってくる車の行列で、あたりはごった返しています。

避難した小学校は、私の母校でもあるため、校舎のトイレを使おうと中に入ると、廊下や昇降口に、毛布に包まって震える人や、頭から血を流して応急処置を受ける人など、私の知っていた小学校の雰囲気からはまるでかけ離れた、殺伐とした光景が広がっていました。

その夜は皆で床に敷いた小さなマットで寄り固まるようにして休みましたが、夜じゅう続く強い余震と天井のライトがきしむ音、体育館中に響く携帯の地震通知アラームの音で、うとうとする暇もないまま、朝を迎えました。


朝の小学校は、避難した人と近所から物資を求めてやって来た人で溢れて、9時半頃にようやく配給と給水の知らせを受けてグラウンドへ出てみると、もう長蛇の列が。
その日は朝からとても日差しが強く、結局屋外で40分以上並んで貰えたのは、おにぎり1つと持参していた500ミリのお茶のペットボトルに注いで貰えた、給水車の水だけでした。


午後2時ごろ、飼い猫が慣れない避難所の環境でストレスを感じたためか、前夜から持ってきた餌も水も全く口をつけず、トイレもしようとしないため、部屋に戻ることが出来ないか、一度様子を見に自宅マンションへ。


部屋の中は、14日の段階でめちゃくちゃになったと思っていた、その状況を遥かに超えていました。
間仕切りの厚い障子が四方に吹っ飛び、家具は壁から1メートルほど動き、ベッドには倒れた本棚から楽譜が散乱している。部屋中のものがごちゃ混ぜ状態で、足の踏み場もない。

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乳幼児を抱える姉は、甥っ子が前の晩、避難所の雰囲気に興奮して泣き続けるため、近所の病院の待合室で夜を過ごしていました。

その姉から連絡があり、昼前に病院が閉まったので、自分の自宅マンションへ戻ったところ、我が家よりは室内のダメージが少ないということなので、そのまま取るものも取りあえず、母と猫と、姉のマンションへ移ることに。



…そして、その日から今日で5日が経ちました。
あっという間の5日間。あれから連日、姉と2人で自転車に乗って、遠くのスーパーが営業しているという情報を頼りに、食糧調達に走り回ったり、自宅のマンションへ地震の収まりを見て戻っては、必要なものを姉の家へ運んだり。市役所でのり災手続きや、避難所へ救援物資を貰いに往復するうちに、飛ぶように時間が過ぎました。


14日の地震発生直後から、県内外や国外の、たくさんの友人・知人から励ましや安否を気遣うメッセージが届きました。
大学時代からのボランティア演奏が縁で親しくなった、東日本大震災の被災地・宮城県の知人からは、《被災時に準備すべきもの・調達すべき食糧・自宅から最低限持ち出すもの》について、とても詳しいアドバイスを頂きました。

その後も、ご自分も被災されたにも関わらず、まだ温かいおにぎりとおかず、水や食糧を届けてくださった熊本の知人の方々。我が家に車が無いのを心配して、物資を届けてくれたり、車で必要なものを買いに連れて行ってくださった方々。


周りのたくさんの方の、心からの支えのお陰で、我が家は全員で何とか毎日を過ごしています。


また、2度目の地震直後、私も周りのために何かできることは無いか…と悶々としていた矢先、炊き出しをするから手伝って!と声を掛けてくださった母の知人の方や、ガス以外のライフラインが幸いにも生きていた姉の家へ、よく訪ねて来てくれた近所の友人たち。
こんなに辛い状況でも、みんなで顔を合わせて、二言三言グチをこぼしているうちに、気づいたら笑いあっている。

口に出すのは簡単な、『周りに生かされている』という言葉の意味を、今回ほど痛感したことはありません。



実は本日21日、私は本当なら大学院受験のため、ドイツのハンブルクへ戻る予定でいました。

航空券はキャンセルが出来なかったため、国内線の分だけを取り消して、現地の先生にもハンブルクへ戻れない旨をメールで説明すると、「とにかく今は家族の側で、あなたが出来る最良のことをしてあげて。いつもあなたとご家族の無事を祈ってる」と返事がありました。


こうした状況になってみて、でも不思議とがっかりする気持ちはなく、むしろ数年ぶりに、家族全員(猫含む)が1つ屋根の下で暮らし、無事に毎日ご飯を食べて眠れることを、心から幸せだと感じる自分がいます。

地震が起きる前より何倍も、誰かの好意が心に沁みるようにもなりました。



まだ熊本は連日強い余震が続いていて、夜も揺れるたびに目が覚めます。県内全域でガスの停止や、いまだ断水の箇所も多く、特に避難所や車中泊の方々は、病気や体調不良と隣り合わせの、厳しい生活を余儀なくされています。

姉のマンションの窓からすぐ見える我が家は、外側こそ目立った崩れはないものの、室内は今では廃墟のようになっていて、まだ強い余震も続く中、とても片付けに踏み込める環境ではありません。たまに必要なものを取りに部屋に戻っても、地震当時のことを思い出すと怖くて、一刻も早く部屋を出て行きたい衝動に駆られます。
マンション隣室のご夫婦も、夜は怖いので毎晩小学校に眠りに行っていると仰っていました。

ボランティアの方々の協力や、県外から届いたたくさんの救援物資も、場所によっては必要なものが充分に行き渡らず、今もSNSは救援要請や物資不足のメッセージで溢れています。


4年以上も東日本大震災のボランティアに関わらせて頂いたのに、私は実際には、被災地で本当に何が必要か・どんな困難や課題があるかなど、全く分かっていなかった事を、今回嫌というほど思い知らされました。




…眠れないままに、このブログを書き出して、もう夜中の3時半。
夕方には何度か強く続いていた余震も、今夜は珍しくほとんど感じず、久しぶりに落ち着いて眠ることが出来そうです…。
足元では飼い猫・リンちゃんが、やっと姉の家に馴染んできたのか、気持ちよさそうに眠っています。(14歳のご老体で、よくこの数日のバタバタを耐えてくれました。。。)

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私は地震以降、真っ暗な部屋が怖くて、寝るときは揺れで倒れないように、いつもライトを点けて眠っています。

ここ数日、布団に入って考える事はいつも同じ。

どうか、大好きな私のふるさとに暮らす全ての人に、1日も早く地震に怯えずに過ごせる日常が戻りますように。

九州でこの度被害を受けた全ての土地が、1日も早く元通りの活気を取り戻しますように。




熊本県民は、とても地元愛に溢れ、芯の強い県民です。つらい中でも、決して笑顔を忘れません。

また熊本は、農業・畜産などの食品産業が盛んな土地です。
どうか是非、県外にお住いの方は、熊本の地酒をたくさん飲んで、熊本県産の美味しいお肉や野菜・お米をいっぱい食べて、熊本を応援してください!!ふるさと納税なども、今後の熊本の復興のために、とても有難い制度です!!!



長い文章をお読み頂き、ありがとうございます。
お陰様で、書いている私も、自分の中でこれまでに起こった事の整理をつけることが出来ました>_<


熊本にたくさんのエールと支援物資を送ってくださった皆様。危険を顧みず、現地で被災されている方も含め、ボランティアへ駆けつけてくださった皆様、本当にありがとうございます!!✨



母がこれまで、私がなにか困難や壁にぶつかり悩むたびに、いつも掛けてくれた言葉があります。

【そがん悩まんちゃ、どぎゃんかなる(そんなに悩まなくても、どうにかなるよ)】。

熊本の言葉でこのフレーズを聞くたびに、これまで何度もつらい時、悩む気持ちを振り切って、前を向くことができました。
今こそ、自分自身にこの言葉を、心から掛けてあげる時だと思います。


私も、引き続き家族を支えながら、誰かのためにできる事をひとつひとつ、小さな事でも行えるよう頑張ります(*^^*)

もうすぐお待ちかねのゴールデンウィークですね!どうぞ皆様、素敵な春の日をお過ごしください❤️