引用: http://muse-story.com/presses/152
色彩の魔術師といわれる人はファッション界に少なくありませんが、極めつきはなんといっても「プリントのプリンス」の異名をとったイタリアのエミリオプッチでしょう。
1996年にフィレンツェのビエンナーレの一環としてひらかれたかれの最初の回顧展では、その色彩の透明感と瑞々しさで観客を圧倒しました。
いまでもただただおどろくほかないのですから、30年、40年も前、それらのコレクションが発表された当時、どれほど衝撃的だったことかとつい考えてしまいますが、実は作家の塩野七生さんが1960年頃にデパートでエミリオプッチのファッションショーをみたときのことを書き記しています。
「正直いってショックを受けたほど、その素晴らしさに驚嘆させられた。
色彩が素晴らしかった。
日本伝統のキモノでは少しも不思議ではない色彩の配合、例えば、紫と空色、紫と緑の配合を、私たちは洋服を着るとなると忘れてしまい、中途半端な色で満足してしまう。
そんな感覚に、平手打ちを食らったような気がした。
ショーの後にあいさつに出てきたエミリオ・プッチを、私はまるで色彩の魔術師を見るような思いで眺めたことを今も忘れない」
『イタリアからの手紙』新潮社
その「エミリオプッチ」ブランドが、若い世代のファンも獲得して、最近リバイバルに拍車をかけていると、「タイム」誌は報じてます。
エミリオ・プッチは、デザイナーには珍しく、バルセント侯爵というフィレンツェの名門貴族として生まれました。
フィレンツェで毎年夏に行われる歴史的カルチョ(サッカー)大会に先立つ旧貴族出身の男性たちの騎馬行列では、エミリオプッチは豪華な甲冑を身につけた白馬にまたがり、指揮官を務めました。
彼は生来スポーツマンであり、第二次大戦には空軍のパイロットとして従軍している。実際にデザイナーとしてのエミリオプッチが最初に認められたのもスキーウェアによってでした。
「ハーパース・バザー」誌の1948年12月号に載ったスキーをする男の素晴らしい写真がアメリカのファッション界で話題になった。
その格好の良い男がエミリオ・プッチでした。
スキー服は自分でデザインしたものでした。
それ以来、スポーツウェアは一貫してエミリオ・プッチのお得意分野になりました。
といっても、彼は突然デザインを初めたというわけではない。エミリオ・プッチのファッションへの関心やデザインの才能は根っからのものでした。
彼は名門出身の青年の人生修業としてアメリカに遊学し、1937年にはポートランドで学位も取っていますが、その間、大学のスキークラブの制服を作っています。
40年代に侯爵が自分自身やガールフレンドのためにデザインした数々の美しいスキー服は、のちのちまでの語り草になりました。
エミリオ・プッチが華やかな色彩のプリントを最初に使ったのも女性のスキーウェアのためだったというのも、彼の発想の源泉がスポーツとバカンスにあったことを示してます。なにしろデザイナーになった彼は一族の歴史の中で初めての「働く男」だったのです。
エミリオ・プッチが自分のブティックを最初に閃いたのが「カプリの青」で知られる南イタリアの景勝地カプリ島だったのも興味深いです。
その後も、エルバ島、ローマと店を開いていき、地中海の自由奔放なバカンスの気分をファッション化しました。
「カプリのエミリオ」と呼ばれたプッチは彼が熟知していたアメリカで圧倒的な支持を得て、ニーマン・マーカス賞、スポーツ・イラストレイテッド賞などを次々に受賞し、「ヴォーグ」などのファッション雑誌は競って彼を特集しました。
1960年代はプッチプリントが全米で全開した時代でした。
それは第二次大戦後ヨーロッパの大方のファッションがまだほんとど全て上流階級を中心にまわっていたころに、プッチは貴族出であるにもかかわらず、男女間や世代間の関係も含めて、ライフスタイルが根本的に変わってしまったことを感じ取って、ファッションにカジュアルな表現を与えることに成功したからでしょう。
その意味で、エミリオ・プッチは単にファッション・デザイナーであるだけでなく、新しいライフスタイルの偉大な提案者でした。
現在の「プッチ・リバイバル」が盛んに語られるようになったのは、エミリオ・プッチがまだ存命中の1990年の事でした。
この都市「ニューヨーク・タイムズ」などがエミリオ・プッチの回帰を大々的に報じたかと思うと、マドンナがエミリオプッチを着ました。
「タイム」誌によりますと、クラシックなプッチ柄がいまだに人気であるだけでなく、新作も若いファンの間で好評だそうです。ソファーなど、サイケ調プリントの家具がブランドに加わっているのも、ライフスタイル・デザイナーのプッチには似つかわしい気がします。