宇崎竜童さんの話の続きです。

 

 

 

私がものすごくウケてるので爆  笑

 

 

 

 

 

宇崎竜童さんに学ぶこと、実に多いです~。

 

 

 

 

宇崎:もうね、阿木は僕の人生のプロデューサーです。

阿木がどこに向かっているかで

僕の行動は決まっちゃう。

 

 

 

奥さんの阿木燿子さんの

尻に敷かれてるみたいでカッコ悪い?

 

 

 

いや全然。

 

 

昭和はそういうのを「カッコ悪い」とか

「男の〇〇が」と言う向きもあったのだろうけど

 

今の時代、これはめちゃカッコいいですよ。

嫁を立てる夫!

 

嫁のお陰で自分はここまでこれました!

と言い切れる宇崎竜童さんは器デカい。

 

 

元々宇崎竜童さんには

彼の確固とした創作世界があった上で、

すんごい奥さんとバランスよく手を繋ぎ合っている。

それが素敵。

 

 

 

社会の変化が彼をさらに輝かせてる。

 

 

 

ふと、さだまさしさんの昭和の歌。

あの「関白宣言」が頭をよぎる

「関白失脚」という歌も後の世に出てるので

その話は別記事で笑

 

 

 

 

 

 

まずここから行きましょう。

宇崎竜童さんに歌手デビューの話が持ち込まれた時の事。

 

 

 

 

銀座でも弾き語りの仕事をして、

そのうち音楽出版社の人が

「レコーディングをしないか」と言ってきたんです。

 

 

最初は「僕は裏方だしなあ」

と乗り気ではなかったんだけど、

どんな方向性にしようかと、

洋楽邦楽問わず

尊敬するアーティストのレコードを

引っ張り出してみたんです。

 

 

そのとき泉谷しげるのレコードが

「ポン」と床に落ちた。

 ファーストアルバムで、

まあファンだったから持ってたんだけど、

 

 

改めてジャケットを見たら

うわ、このルックスでイイんだ!」笑。

 

 

曲はギターに鼻歌。

これでいけるなら、

自分もと。

 

流れに乗ってみることにしました。

 

 

 

 

 

 

歌手ってのは〇〇じゃないと、、、が

宇崎さんの頭にあったのですよね。

 

でも流れにのることにした。

 

 

その泉谷しげるさんのアルバムジャケットが

どんなのだったか、

気になる方は私だけではないはず。

こちらでございます。

 

 

 

 

 

 

 

次はバンドのイ衣装の話です。

 

 

 

 

宇崎竜童さんが有名になったバンド

ダウンタウンブギウギバンドのスタイルは

全員ツナギにリーゼントでした。

 

ところで何故ツナギ着たの?について。

 

 

 

 

ファーストアルバムのとき、

ちょうど「キャロル」が出てきて「俺たちに近いよね」と。

(キャロルは昔の矢沢永吉さんのバンド)

 

 

ドラマーが一時キャロルにいたこともあって、

「じゃあ俺たちは

リーゼントにタキシードにしよう」となった。

 

 

でもタキシードで夏のビアガーデンに出てるとね、

汗でタキシードが

塩昆布みたいになっちゃうんですよ。

 

 

 

そんなときドラマーが

アルバイトで使ったつなぎを

「寝間着にしたら?」とくれた。

 

 

それを着て夏の海辺のフェスに出たら、

パーッと中学生の女の子たちが寄ってきて

「お兄さん、カッコいいね!」って言うんです。

 

 

「つなぎなんてカッコ悪いじゃん」と言ったら

カッコ悪いのが“カッコいい”んだよ」って。

 

 

「おお!! そういうことか!」と。

 

ちょうど住んでいた家の裏に作業服屋があったんです。

店をのぞいたら「つなぎ 3500円」!

 「これ、四つください!」って。

だってタキシードは1着十何万円したんだから!笑

 

 

子供心にもツナギで揃ったお兄さんの彼らは

カッコよかったラブ

え?と目を引いた。

 

 

 

 

次のエピソードは彼らのヒット曲

 

「港のヨーコヨコハマヨコスカ」の作曲の話です。

 

 

 

 

 

 

 

この歌、メロディがのってるのが、

サビの部分の

「港のヨーコヨコハマヨコスカ」位で、

あとはなんか台詞というか、語りなんですよ。

 

 

 

 

決め台詞があってですね

アンタあの子のなんなのさ?

この言葉は流行語になりました。

 

 

 

なんでこんな全部台詞みたいな歌になったのか?

に関してはこちら

 

 

 

 

 

宇崎:家に帰ったら

コタツの上にポンと置いてあるんですよ。

で、見たらあの詞でしょ。

何じゃこりゃと笑。

 

 

どうすれば歌になるのか、

いちばん悩んだのがあの曲ですね。

結局、トーキング・ブルースってジャンルが洋楽にあって、

それをヒントに、そのまましゃべるスタイルにしました」

 

 

 

 

同じことを別の語り口で↓

 

「あれは歌にならなかったですね」と語るのは
1975年4月に発表された「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
 

宇崎 「♪ちょっと前なら」と“始まりがハネている”ので
    何度 曲をつけても「スーダラ節」になっちゃうんです。

 ♪ ちょっと一杯のつもりで飲んで (スーダラ節)
 ♪ ちょっと前なら覚えちゃいるが 
(港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ)

 

この曲は、小学生の時に聴いていたカントリー歌手の
ジョニー・キャッシュが音楽をバックに語り、
最後に ひと節歌う“トーク・ソング”がヒントになったのだそうです。

宇崎 だから「♪港のヨーコ・・・」の “2小節”しか作曲してないんです。
    ちゃんと印税はいただいたんですけど。

 

 

 

 彼はそこで無理しないんですね、

出来ないものを、なんとか形にしようとはしない。

でも、ふっと「あっ!トーキングブルース!」と

差し込んできた気づきにさっと乗る。

 

 

 

でも元々竜童さんは作曲家としても真摯な方↓

 

 

宇崎:僕は曲を書きたいと思っていて、

大学を卒業するまでの3年間で

「1日1曲書く」というノルマを自分に課したんです。

瞬間的に曲を書ける人間じゃなきゃ

プロになれない、と思っていた。

 

 

 

 

 

 

その宇崎竜童さんに憧れたのが

あの桑田佳祐さん

 

 

 桑田と宇崎竜童の出会いは古く、

桑田がデビューする前に遡ります。

「俺の愛すべき歌謡曲は

『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』以来ほとんど出ていない」
 

と公言するほど、宇崎を敬愛していた桑田は、

デモテープ持参で彼の楽屋まで訪ねていき、

 

「事務所に入れてくれないか?」と打診したとのこと。
 

しかし、宇崎はこれを拒否。

理由は、桑田独自の

ハッキリと聴き取れない歌唱法が

気に入らなかったからだと。

 

 

 

 

桑田さんから宇崎竜童さんへの

ラブレター曲が

「ヘイryudo」

 

 

 

 

ちょっと探しただけで

宇崎竜童さん伝説山盛り笑
色んな意味で魅力的
 
 
 
こんな本が出てた。
 
なぜ宇崎竜童&阿木燿子は
お互いに好きな事をしても
うまくいくのか夫婦学、老後学は2人に学べ
 
 

 

 

 

宇崎竜童さんのお名前、

竜童って何なのでしょう。

 

 

竜の童(わらべ)?

 

 

私には、辰の子太郎しか思い出せませんが

 


 

 竜に乗る人は、

「あっちに行こうか」の指差しを

するのがお役目のような気がします。

 

 

 

ジタバタすると落ちちゃう。

竜に素直に身体を預けることが大事。

そしたら竜がのせて運んでくれる。

 

 

 

 

竜童さんのお名前は芸名ですが、

自分の名前を生きてらっしゃるような気がします。

もちろん立派な龍は才色兼備の奥様。

 

 

 

どちらが龍であれ太郎であれ

パートナーと「手を繋ぐ」事における

見本のような方だなあ、と思いました。

 

 

 

 

ありがとうございました。