前回は、約7300年前に起きた喜界カルデラ噴火(アカホヤ火山灰)により南九州が甚大な被害を受けた事を記しました。
今回は、大災害の後を追っていけたらと思います。
アカホヤ火山灰の影響は、北東部九州から南九州まで約1000年余り続いたようです。
しかし文化は、大災害の中 命をつないだ縄文人を通して続いていきました。
アカホヤ火山灰K-Ahの前後の土器が表わされてます。
九州地方でのアカホヤ火山灰前の土器に、
熊本の轟貝塚出土の轟A式があります。
その轟A式の土器は、佐賀の東名貝塚からも出土していて交流があったと思われるのです。
大噴火や大災害が起こり避難が余儀なくされたならば、見知らぬ土地ではなく わずかでも知る人達が居る土地を求めて行くのではないでしょうか。
轟貝塚の縄文人は東名貝塚へと身を寄せる為に陸路より有明海の海路が必然だったと考えます。
そして、辿り着き 助けられ 生きのびることが出来たのではないでしょうか。
東名貝塚も、やがて縄文海進が進み水没していくことなります。
そんな縄文人が、佐賀県腰岳の黒曜石を
持って舟に乗り、朝鮮半島へ 新天地を目指したかは不明ですが…
長崎県伊木刀遺跡(多良見町)から外海用の船が出土していて、海洋民族だと考えられます。
朝鮮半島南部の東三洞貝塚遺跡から黒曜石が出土しています。
日本列島の祭祀に使用された、土面にも
つながる貝面ですね。
東三洞貝塚は、朝鮮釜山影島区の東岸にあるBC5000年〜(新石器時代)の貝塚で、櫛目紋土器が出土しています。
その編年については、さまざまな説があるようです。
九州地方の縄文前期土器(轟A式・塞ノ神式)や縄文中期土器(阿高式・曾畑式・南福寺式・鐘崎式)が出土することから朝鮮半島と日本列島の交流があった事を示す資料となっています。
ちょっと思い出したのですが、阿高式土器や曾畑式土器は、南米エクアドルでも出土してましたね〜。
当ブログの糸、その4に載せてます。
同時期同様に、海洋の船に乗り 熊本の縄文人は、韓国へ
宮崎の縄文人は、南米へ
それぞれ船出したのでしょうか?
話しをアジアに戻します。
朝鮮半島の歴史は旧石器時代に始まり現在50ヶ所の遺跡が発見されている。
そして、その後の約1万2000年前から7000年前の5000年間は、遺跡が出土していません。
その後再び遺跡が発見されるのは、新石器時代の7000年前(BC5000)
この時代の著名な遺跡が朝鮮半島南部の東三洞貝塚と、北部の平壌にある弓山貝塚です。
共に「櫛紋土器」が出土してます。
ただし、弓山貝塚では縄文土器や黒曜石などは出土していません。
朝鮮半島南部には、縄文人の痕跡が残されていますが、韓国の直接の祖先は、約4000年前(BC2000)新石器時代を築いた民族だと言われています。
韓国の方々の祖先と共に「倭人」が朝鮮半島南部に居住していた事実も、DNA解析を通して科学的に証明されています。
それは、弥生時代前期に出現する支石墓です。
この支石墓は、玄界灘沿岸にあり
朝鮮半島に起源を持つお墓ですが 在来系の縄文人に似た人びとが埋葬されていたのです。
注目されるのは、朝鮮半島の人達の中にも縄文人と同じDNA配列を持つ人がいることが知られています。
縄文人から倭人へ 話しは続きます。