各地を旅していると 時々 太平洋戦争の時にアメリカから飛んで来た 戦闘機が墜落した場所に

そのパイロットを丁重に弔って 埋葬されてる場所をたまに目にする事がある。


住民にとったら 憎い敵である米兵さえも 仏様として丁寧に弔っているのは 日本人らしい風習だと思う。


方広寺 豊国神社のそばには そんな塚がある。


耳塚

これは、朝鮮出兵の時に 日本国内なら敵の首を持ってくるのだが 朝鮮半島は遠いので 耳や鼻を削いで塩漬けにして 持ち帰った。

もちろん、今の感覚で言えば とても恐ろしい行為だけど

あの頃は 自分の手柄を示さなけば その後の恩賞に左右されるから。


その負けて殺された敵も キチンと弔っていると言う意味では 他の国とは全然違うと思う。



耳塚公園では、近所の小さなお子さんを連れたお母さんが 子供が楽しそうに遊ばせてるのをみて

現代に産まれて良かったねと、自分にも言い聞かせて 耳塚に手を合わせて来ました。




そこから 京都国立博物館を超えて道を渡り 楽しみにしていた所。





三十三間堂

https://www.sanjusangendo.jp/


ここから 写真は全て ホームページからお借りしています




ご本尊は 千手観音様 中央に大きな千手観音坐像が鎮座し





この千手観音像 一体一体 お顔が違う(作った人も数多く)それを見てるだけでも 何時間でも飽きないで見てられる。


しかし!その沢山の千手観音様に負けないくらい 素晴らしいのが




https://www.sanjusangendo.jp/statue/nijuhachibushu/


これが、本当に素晴らしい😆



この蓮華王院 三十三間堂は 源頼朝から大天狗と呼ばれた 後白河院の離宮に創建されました。



後白河院 ちょっと 私は後醍醐天皇と被ってしまうなぁと思う😂

単刀直入に正直に言うと 困ったちゃん。


後鳥羽院は 天皇に即位して たった三年で譲位。

理由はこちら↓


祭祀は天皇に任せて 自分は政治を取り仕切りたいから。


途中 平清盛に幽閉された時を除いて後鳥羽天皇の時代まで 影響を与えたんですが


その後に現れた後醍醐天皇に最後まで付き従った

北畑親房が書いた 神皇正統記には

(この書物は、後醍醐天皇の崩御の後 次の天皇の教育の為に書かれたもの)


この本は 日本は神国であるから始まっているので 天皇礼賛の国家主義の書物だと 左側の人に目の敵にされているが 本当はそうではない。

 

​畏れながら 後鳥羽天皇が負けたのは
が無かったからです。
誠に 畏れ多いのですが  父君であられる
後醍醐天皇も ちょっとが足りなかったから 世の中は混乱したんですよ。

と書いている。

後白河院の影響を受けてた 後鳥羽天皇のした事は

そのまま 受け継いで 承久の乱が起きている。


後醍醐に付き従い 最後まで後醍醐側だった人がそう言うんですから😂


ちなみに 北畑親房の息子 顕家は 足利尊氏との戦いで戦死したのだが


頭も良かったし めちゃくちゃイケメンだったそうですよ。





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